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交響曲第2番「復活」について

2016年03月20日 09:04

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はじめに

 マーラー(1860-1911)の交響曲第2番「復活」は、100名以上を要する大合唱、トランペットとホルンが10名、ハープが2台、ティンパニが2セット必要などというように演奏規模が大きく、演奏企画に相当の準備が必要であることにもかかわらず、演奏される機会は近年相当に増えており、マーラーの11曲の交響曲の中で特に好んで演奏されています。1970年代以降マーラーの演奏回数が急激に増え、マーラー・ブームなどといわれましたが、最近の交響曲第2番「復活」の演奏頻度の多さは、ブームという事象などを超えて、この曲がベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーなどによる傑作交響曲と並んで、あるいはそれらの曲を超えて、クラシック音楽の不滅の名曲という地位を既に確立したと言ってもよいでしょう。以下にこの曲の成立事情に触れながら、この傑作の魅力に迫りたいと思います。

 

Ⅰ 交響曲第2番の成立の背景

 1888年からハンガリー王立歌劇場の首席音楽監督、1893年からハンブルク市立歌劇場の首席楽長となっていたマーラーは、多忙な生活を送っていた。当初はまだ、夏の休暇で集中的に作曲するという生活習慣やその余裕がなかったこともあり、交響曲第2番の作曲には7年間を要した。ただ、交響曲第2番の作曲だけにずっと従事していたわけではなかった。

第1楽章だけがまず交響詩「葬礼」として1888年につくられ、作曲当初は独立した交響詩あるいは、1楽章形式の交響曲として考えられていた。その後、マーラーの作曲のエネルギーは歌曲集「子供の不思議な角笛」に注がれる。次に交響曲第2番の作曲に戻ったのは1893年で、アンダンテ楽章(現在の第2楽章)、スケルツォ楽章(現在の第3楽章)、「子供の不思議な角笛」の中の「原光」が作曲された。1893年頃には、現在の第1,2,3楽章を交響曲第2番とすることが決まってきていた。しかし前半の巨大な3つの楽章に均整のとれる終楽章をどうするかということにマーラーは悩み、作曲は滞ってしまった。ちょうどその頃、大指揮者ハンス・フォン・ビューローがカイロで亡くなり、葬儀が1894年3月にハンブルクで執り行われた。ビューローに世話になることも多かったマーラーはその葬儀に列席し、その時の思い出を3年後に友人のザイドル宛に次のように書いている。

「この作品に対する啓示を受けたいきさつは、芸術的創造性の本質という点で、極めて独自な性質をもっています。私は、長い間、最終楽章に合唱をもってくるという考えを抱いていました。ただ、それがベートーヴェンの単なる模倣にすぎないと受け止められるのではないかと恐れ、何度も何度もためらってきたのです。ビューローが亡くなり私は葬儀に出席しました。その場に座し、死者に思いをめぐらせた時の心のありようは、当時私が考えていた作品の精神とまったく同じものでした。すると、上のオルガン席から合唱団が、クロプシュトックのコラール『復活』を詠唱し始めたのです! これはまさに稲妻のように私を貫き、そしてすべてが鮮明にはっきりと私の目の前に立ち現れたのです! およそ創造力に満ちた芸術家なら誰もが待ち焦がれる稲妻の一撃、これこそ、いわゆる聖なる受胎と言えましょう!」

マーラーはクロプシュトックの詩に自分自身の詩を付け加えて、第5楽章を1894年7月に仕上げた。そして第4楽章に「原光」を配置して、主題上の関連性、音楽的曲想の一貫性を与え、これまでの交響曲史上最大の曲として交響曲第2番を完成させた。そしてマーラーは、自身の生涯で大切な機会には何回も交響曲第2番を演奏し、この曲に対する特別の愛情をしめし続けた。

マーラーは交響曲第4番の作曲以降、標題音楽から離れていったが、交響曲第2番については、作品の完成後に何度も標題的な説明を加えている。ここで、当時婚約者であったアルマ・シントラーにあてた手紙における曲の説明を挙げたい。

第1楽章

“われわれは、愛する人の棺の前に立っていた。彼の生涯、苦悩が、最後にもう一度、われわれのまぶたに浮かぶ。この世の生とは何か? そして死とは? これら全てはただ混乱した夢なのか? われわれは生き続けるのなら、この問いに答えねばならない。”

第2楽章

“愛する故人と過ごした生涯の幸福なひととき。そして青年時代と失われてしまった無垢の心への哀しい追憶。”

第3楽章

“懐疑と否定の精神が彼に取りつき、彼は混乱した幻影を見る。彼は子どもの清らかな心と、愛だけが与えてくれる支えを失う。彼は自らと神に絶望する。彼には世界と生が無秩序そのものとなる。全ての存在と生命に対する嫌悪が彼を鉄の腕で捉え、彼は絶望の悲鳴をあげる。”

第4楽章

“無垢な信仰の、祈りの声が響く。私は神から来て、神のもとに帰るのだ! 愛する神は、私に光を与え、永遠の至福の生命へと私を導いてくれるだろう!”

第5楽章

“われわれは再び恐ろしい問いの前に、第1楽章の終わりの雰囲気に引き戻されて、立っている。召喚する声が響いてくる。生きとし生けるものの終末の時である。最後の審判の開始が告げられ、最も恐ろしい日が始まる。大地は震え、墓は口を開き、死者は起き上がり、墓から果てしのない列をなして行進していく。哀れみと慈悲を乞う叫び声が、絶叫となってわれわれの耳を打つ。われわれの感覚は麻痺し、意識は消え失せていく。『大いなる叫び声』が響き渡る─黙示録のトランペットの響きである。これに続く恐ろしい静寂の最中に、われわれは遥か彼方から、まるでこの世の最後の震えるこだまのようなナイチンゲールのさえずりが聞こえるように思う! 聖者と天使たちの合唱が静かに始まる。『復活する。そう汝は復活するのだ。』この時神の栄光が現われる! すばらしい優しい光がわれわれの心にまで染み入ってくる! そして見よ、そこにはもはや裁きはない! 全能の愛の感情がわれわれを、あまねく照らしだす!”

 

Ⅱ 楽章の分析

第1楽章

弦楽器によるトレモロの上に、低弦での強烈な印象の動機(譜例1)が出現する。この印象は、マーラーが好きであったと伝えられているヴァーグナーの楽劇「ヴァルキューレ」冒頭を思い起こさせるところもある。ともに「死と再生」のテーマが潜んでいる。17小節にわたる序奏の後で、緊張をはらんだ硬い雰囲気の第一主題(譜例2)がオーボエとイングリッシュ・ホルンで奏でられる。楽章全体に葬送の雰囲気が色濃いが、これまでの悲劇的性格と対照的な第2主題(譜例3)は、ヴァイオリンによる上昇音型で、時には秘かな憧憬をこめて、時には牧歌的に歌われる。第1楽章はソナタ形式によっているが、展開部が巨大であることが特徴的である。その葬送の雰囲気が深い展開部でイングリッシュ・ホルンとバス・クラリネットによって奏でられる動機(譜例4)は終楽章との関連で重要であるが、この動機がトランペットとトロンボーンによって再び現れるとき、直後に「怒りの日」による旋律(譜例5)が続く。この「怒りの日」の旋律は終楽章で決定的に重要な役割を果たす。第1楽章は、この後カタストローフに向かい、最後は死を象徴するかのように悲劇的に終わる。

第2楽章

アンダンテ・モデラートのテンポで構成される牧歌的な第2楽章は、二つの部分がそれぞれに変奏される二重の変奏曲であり、他の楽章は主題の上でも緊密に関連していることに対し、独立した性格を持っている。マーラーはバウアー=レヒナーに次のように語った。

「ハ短調交響曲におけるひとつの欠点は、明るい舞曲のリズムをもつアンダンテと最初の楽章が醸し出すあまりに鮮明な(そして非芸術的な)対立だ。その理由は、僕が二つの楽章をそれぞれ独立したものとして、両者を結び付けようという考えなしに構想したことにある。そうでなければ、少なくともアンダンテをチェロの旋律で始め、そのあとに今の開始部を続けることができたかもしれない。でも、今となってはもう書き直すことは無理だ。」

マーラーは第1楽章のスコアの最後に、第2楽章を始める前に最低5分は間をあけることという指示を書き込んでいた。

第3楽章

この楽章の重要な部分(譜例6)は、マーラーの歌曲「子供の不思議な角笛」の中の1曲「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」から引用されている。歌曲は、「教会に説教に行った聖アントニウスだったが、教会に誰もいないことを知り、代わりに魚に説教をした。魚は説教を楽しんだが、魚は結局何も変わらなかった。」という内容である。実質的にスケルツォ楽章であり、トリオの部分(譜例7)は歌曲にはなかったものである。2回目のトリオでクライマックスに達した部分は、そのまま第5楽章の冒頭でも再現される恐怖のファンファーレに突入する。

 マルシャルク宛ての手紙では、この第3楽章について、次のように説明している。

「きみが物思いに沈んだ夢から目覚めると、再びこの混乱した人生に対峙しなければならない。そしてこの終わりのない動き、休みなく、決して理解されることのない人生の喧騒は、ちょうど暗い夜に屋外から見る─遠すぎて踊りに伴う音楽は聞こえないのだ!─、明るく照らし出される大宴会場で踊る人々のうねりのようにきみの目には恐ろしく映るだろう。そんな時、いかに『人生は意味のないもの』に思えるだろう。余りに不快で、叫びとともに飛び起きるひどい悪夢のようじゃないか! それが第3楽章なんだよ!」

第4楽章

「原光(原初の光)」は、当初「子供の不思議な角笛」の中の歌曲の一つとして作曲され、マーラーはそれを交響曲第2番の第4楽章に転用しているが、その曲想もテキストの内容も、交響曲第2番のために最初から作曲されたと言われてもおかしくないほど、曲全体と調和しフィナーレを導く曲となっている。マーラー自身「原光は、神と永遠の生に対する魂の問いかけと、それらを獲得しようとする魂の闘争なのだ」と説明している。トランペットによるコラール風の導入(譜例8)に続き、アルト・ソロによって、「人間は大いなる窮乏のうちにある」と歌いだされる(譜例9)。後半で「私は神から生まれ出たもの」と歌われる部分(譜例10)は、第5楽章でソプラノ・ソロとアルト・ソロによる二重唱のところで、極めて印象的に再現される。

第5楽章

 「最後の審判」とその後の「復活」が描かれたこの第5楽章は、交響曲第2番の核心であるばかりでなく、マーラーが作曲した終楽章のうちで最も劇的で感動的な楽章の一つとなっている。マーラー自身、この楽章を書き終えて次のように友人に書いていた。

「これはすごい作品で、極度に力にみなぎる構成をもっている。最後のクライマックスは恐ろしいほどだ。」

 冒頭の「恐怖のファンファーレ」に続いて、「永遠」と「昇天」の動機(譜例11)がホルンによって奏でられる。舞台裏のホルンによって「荒野に呼ぶもの」の部分が始まると、まず「怒りの日」の旋律(譜例5と関連)、そしてトロンボーンによって「復活」の主題(譜例12)が登場する。6名の打楽器奏者による破壊的なクレッシェンド(「地は揺れ、墓は口を開く」)の後は展開部となり、勇ましい行進曲(死の行進)(譜例13)の中で「怒りの日」と「復活」の主題が交互に展開され、最後はこの世が崩壊していくようなクライマックス(恐怖のファンファーレと「怒りの日」の動機の反復)に至る。続く展開部後半では、ステージ上のオーケストラと舞台裏のトランペット・打楽器がかけあいながら迫り、壮絶なカタストローフとなる。音楽は突然静まり返って、「永遠」と「昇天」の動機が再現された後は、フルート・ピッコロによる鳥の鳴き声がさえずられるが、その音楽は舞台裏の遠くから聴こえてくるトランペットのファンファーレと見事に調和する。

 再現部では、「復活」の合唱がpppで神秘的に導入される(譜例14)。ここからの歌詞は8連からなっているが、最初2連はクロプシュトックの原詩、つづく6連はマーラーの作詞によるものである。第3連「おお、信じるのだ」からはアルト・ソロとなり、第5連「おお、苦痛よ」からは譜例10と密接に関連した二重唱となる。そして第6連「私は勝ち得た翼をはばたかせ」(譜例15)からは、どんどん高揚し、最後の第8連「蘇るのだ、そう、おまえは蘇るだろう」(譜例13より派生)で永遠の生命への賛歌のクライマックスへと到達する。

 このフィナーレは、永遠の生命への祈りというだけでなく、私たちが音楽において至高体験、すなわち一生忘れられないような感動体験ができる可能性を証明してくれる最高傑作なのである。

 
伊勢管弦楽団  音楽監督  大谷 正人
 

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