三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。


リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」

2017年01月22日 18:46

はじめに

 伊勢管弦楽団の36回の定期演奏会ではリヒャルト・シュトラウス(以下シュトラウスと略)の「ばらの騎士」をメインに演奏します。伊勢管がシュトラウスの作品を演奏したのは、第5回定期でのホルン協奏曲第1番と、アンコールで演奏した2つの歌曲だけで交響詩などは一回も演奏していません。したがって、伊勢管にとって今回はほとんど初めてのシュトラウスと言っていいでしょう。シュトラウスは管弦楽曲とオペラの両方の領域で多くの作品を後世に残し、しかもその両方の領域とも愛されている曲が多いという点で、モーツァルトと双璧の作曲家であり、オーケストラを愛するものにとって、非常に重要な作曲家です。しかも、「ばらの騎士」はシュトラウスにとって最も重要な管弦楽とオペラの両方の醍醐味を味わえる作品となっています。そこで今回の指揮者の部屋では、シュトラウスの生涯について概観してから、歌劇「ばらの騎士」について概説し、さらに今回演奏する「ばらの騎士」(組曲より~終幕の3重唱)について説明したいと思います。


Ⅰ シュトラウスの生涯

 シュトラウスはバイエルン王国の首都ミュンヘンで1864年に生まれて、ドイツのバイエルン州のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで1949年に満85歳で亡くなった。大作曲家のなかで生まれた土地と亡くなった土地がほとんど同じという作曲家は意外と少なく、シュトラウスはドイツ人というよりもバイエルン人という方が適切なところが少なくない。ミュンヘンの市民気質として、職人気質と芸術への愛が深く結びついており、その傾向は人口が20万人余りのバイエルン王国の首都であった当時から、人口が140万の大都市になった現在も変わっていない(私自身ミュンヘンで1年間生活した実感からもそう感じます)。生きた時代としては、ドイツが繁栄し、2つの世界大戦により、廃墟となるも復興を始めた時代と重なっている。シュトラウスは10代の若いときから活発に作曲をして、最晩年まで作曲を続け、しかも「4つの最後の歌」のような最晩年の傑作を残したことなどでも、その業績は偉大である。

 シュトラウスの父親フランツ・シュトラウスは、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者で、父フランツにとって、音楽はモーツァルトが最高であり、当時から人気が高かったヴァーグナーの音楽は嫌っていたものの、「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演が同劇場でなされた時も首席ホルン奏者であった。そのようなフランツについて、シュトラウスは"トリスタンとマイスタージンガーのホルン・ソロをこんなにうまく吹ける人はいなかった"と語り、一方ヴァーグナーは"シュトラウスはとんでもない奴だが、いったんホルンを吹き始めると文句は言えなくなる"と言っていた。母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘で、母の兄、つまり伯父ゲオルク・プショールはシュトラウスに援助を惜しまなかった。子どもの時からプショールの家でプショール家の一員として育ったシュトラウスも、その感謝の気持ちから「ばらの騎士」をプショール家に献呈している。

 幼少時から父の友人などにピアノ・ヴァイオリン・作曲を学んだ後、シュトラウスはミュンヘン大学に入学し、その後ベルリンに移った。シュトラウスにとって幼少時からモーツァルトは神様であったが、父親のもとを離れた17歳頃からヴァーグナーの影響を受けるようになった。ベルリンに移ったあとは、大指揮者ハンス・フォン・ビューローの補助指揮者としての地位を得て、指揮者として活躍すると同時に、1888年には24歳の若さで交響詩「ドンファン」も作曲し、作曲家としての名声も高めていった。1894年にはバイロイト音楽祭で「タンホイザー」を指揮したことをきっかけとして、エリーザベトを歌ったパウリーネ・デ・アーナと恋におち結婚した。パウリーネは気性が激しい女性で、シュトラウスをいつも尻に敷いていたが、シュトラウスは、「私にはあれが必要なんです」と、何があっても大人しく言われるがままになっていたようである。結婚後数年間の19世紀末は、シュトラウスにとって交響詩の時代で、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥストラはこう語った」「ドン・キホーテ」「英雄の生涯」などの名作が次々に作曲された。

 20世紀になると、シュトラウスの作曲上の関心はオペラに移っていった。「サロメ」(1904年初演)、「エレクトラ」(1909年初演)などのヴァーグナーの影響が大きい前衛的な作品を経て、「ばらの騎士」(1911年初演)においてモーツァルトを理想とする作風に達した。1911年は親交が深かったマーラーが死去し、「大地の歌」が初演された年である。20世紀初めの近代音楽の流れから遊離はしていったが、「ばらの騎士」によってシュトラウスの名声はピークに達し、初演されたドレスデンに鑑賞向けの特別列車が仕立てられるほどのセンセーショナルな大成功であった。同時に「ばらの騎士」の第3幕の終わりに象徴されるように一つの世界、つまり19世紀的な美的世界の終焉を示す曲でもあった。

 第一次世界大戦におけるドイツの敗北により、シュトラウスは財産をほとんど失い、戦後の1919年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督として再出発をすることになった。その後のシュトラウスの人生や音楽上の創造は、ナチス・ドイツとの複雑な関係もあり、停滞期に入った。シュトラウスはナチス・ドイツによる第三帝国の帝国音楽院総統についたことを批判されて、戦後非ナチ化裁判にかけられたが、戦時中にユダヤ人の仲間を擁護したこともあり、最終的に無罪となった。戦後のインタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語っていた。しかしその中で、「メタモルフォーゼン」や「4つの最後の歌」のような傑作を作曲したことは驚異でもある。1949年ガルミッシュ=パルテンキルヒェンに戻ったシュトラウスが最後に指揮をしたのは、できたばかりのバイエルン放送交響楽団であった。指揮をした2ヵ月後の1949年9月8日にシュトラウスは死去した。


Ⅱ 歌劇「ばらの騎士」

 シュトラウスは劇作家ホーフマンスタールと共同でオペラを何作か残しているが、その中での最大傑作が「ばらの騎士」である。タイトルの「ばらの騎士」とは、ウィーンの当時(18世紀後半)の貴族が婚約の申し込みの儀式に際して立てる使者のことで、婚約の印として銀のばらの花を届けることから、このように呼ばれているが、実際にはこの儀式はホーフマンスタールの創作であった。また「ばらの騎士」では甘くせつないワルツが頻繁に現れて、この曲の魅力を高めている。18世紀後半は、まだヨハン・シュトラウスらによるワルツはなかった時代で、時代考証としては不自然ではあるが、シュトラウスはこの「ばらの騎士」のワルツについて、「あのウィーンの陽気な天才(ヨハン・シュトラウス2世のこと)を思い浮かべずに作曲するなど、ありえただろうか」と語っている。

 あらすじは以下のようになっている。

第一幕

 元帥夫人のマリー・テレーズは、若い愛人オクタヴィアン伯爵(メゾ・ソプラノ歌手が歌う)と情熱的な夜をすごす。翌朝、元帥の帰宅かとあわてたオクタヴィアンは、小間使いの娘マリアンデルに変装する。ところが、現れたのは元帥ではなく、親戚のオックス男爵であった。男爵は、まだ一度も会っていないが婚約者となったファニナルの娘ゾフィーに対する婚約申し込みの使者として、銀のばらを届ける「ばらの騎士」を紹介してもらいに来たのだった。元帥夫人は、オクタヴィアンの絵姿を見せて、オクタヴィアンを「従弟」のロフラーノ伯爵として紹介した。

第二幕

 ばらの騎士と婚約者オックスが初めてファニナル家に訪ねてくる日になったが、オックスの下品な振る舞いに困ったゾフィーは、ばらの騎士であるオクタヴィアンに救いを求めて、二人の間に恋心が芽生えた。ゾフィーがオックスとは結婚しないと宣言したのに、オックスが無視してゾフィーに迫るためオクタヴィアンは剣を抜く。オックスも剣を抜くがすぐに負けてしまい、悲鳴をあげて怪我を周囲にアピールする。オックスは酒をふるまわれ、そこにマリアンデルから誘いの手紙が届き、オックスは上機嫌となった。

第三幕

 ウィーンの居酒屋でマリアンデルに扮したオクタヴィアンは、気まぐれな娘を装って、なかなかオックスの誘いに応じない。そこにオックスの妻と名乗る女性や子どもたちが登場したので、混乱したオックスは警察を呼ぶ。警察にマリアンデルのことを自分の婚約者と紹介する。そこにゾフィーと父親が登場し、事態の説明を求め、大騒ぎとなったところに元帥夫人が登場する。オクタヴィアンは元の男性の姿にもどり、ゾフィーとオックスの婚約は解消される。元帥夫人マリー・テレーズは事態を見守り、若い二人を祝福し、身を引く決心をする。若い二人は、幸福感に満たされた二重唱を歌って退場する。二人が去ったあと、元帥夫人の黒人小姓が現れ、ゾフィーが落としたハンカチを見つけて駆け去ると幕が下りる。


Ⅲ 「ばらの騎士」(組曲より~終幕の3重唱)

「ばらの騎士」は、名作で人気の高い曲であるだけに、何種類かの管弦楽版がある。最もよく演奏されて、録音も多い組曲版は、指揮者ロジンスキーの編曲によるものと言われている。ロジンスキーによると言われている組曲は、歌劇の主要な部分を上手につないでいるが、曲のエンディングの仕方に一番大きな欠点がある。組曲版の最後の部分は、第三幕における大騒ぎの場面の終わり頃の、オックスや警官、子どもたちが退場する部分にあたり、オックスのワルツの派手な変奏となっている。その部分自体はシュトラウスによるものであるが、一番最後が編曲者によるエンディングでにぎやかに終わるようになっている。しかしほとんどすべての交響詩の最後をピアノで繊細に終わらせているシュトラウスの美学とは全く相容れない、野暮ったいエンディングとなっている。そこで第36回定期演奏会では組曲を半分以上演奏した途中から、第三幕の最終場面の3重唱の部分につなげて、そのまま終わらせる方法を採用した。

 今回演奏する組曲の箇所は以下の5つの場面から出来ている。第1の部分は、第一幕の冒頭部分で、元帥夫人とオクタヴィアンによる愛の場面である。第2の部分は、第二幕でばらの騎士が登場する部分、ここではハープ、フルートなどによるきらめき輝く和音進行が印象的である。第3の部分は、男爵付き人のイタリア人二人が、オクタヴィアンとゾフィーの抱擁を取り押さえる、けたたましい音楽となっている。その後、突然オックスによる優雅な19世紀末風なウィーンのワルツに突然場面転換する(第4の部分)。第5の部分は、第二幕冒頭のファニナル家でばらの騎士を待ち受ける場面の音楽となるが、この部分は短く、歌劇終曲に相当する3重唱の部分に移行する。

 この3重唱は、「ばらの騎士の3重唱」として知られる名曲で、主役の3人が自分の想いを歌う。オクタヴィアンはゾフィーに夢中だが、愛し合っていた元帥夫人にも未練があり、混乱している。ゾフィーは、自分を救ってくれたオクタヴィアンが元帥夫人と愛人関係にあることに気づき傷ついている。元帥夫人は若い二人を祝福し、身を引く決意をする。そして元帥夫人が退いた後は、ゾフィーとオクタヴィアンが「夢のよう」と歌う愛の二重唱となって二人が舞台から去った後、あらすじにも書いた小姓がハンカチを拾う場面があり、全曲の幕が降りる。この3重唱は、シュトラウスにとっても愛着が非常に深い曲であり、遺言によって、彼の葬儀で演奏された。


おわりに

「ばらの騎士」については、日本の代表的評論家である吉田秀和は「モーツァルトを除けば一番好きなオペラ」と書き、同じく宇野功芳も「モーツァルト以降に書かれたもっとも魅力的なオペラ」と述べています。またシュトラウス研究者の岡田暁生は、「いわば夢のオペラとも言うべき作品であり、オペラが長い歴史の中で培ってきた、あらゆる魅力が凝縮されている」と述べています。そのような傑作の魅力、美しさを少しでも表現できるように願い、そのために最善をつくしたいと思います。


伊勢管弦楽団  音楽監督  大谷 正人

—————

戻る