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マーラーの交響曲第6番 ー 成立の背景 ー

2019年02月23日 09:07

はじめに

マーラーの交響曲第6番は、マーラーのすべての交響曲の中で悲劇的に曲を終える唯一の作品である。同時に、マーラー研究者の先駆的な存在であるアドルノは第6交響曲の第4楽章を「マーラーの全作品の中心」と呼び、マーラーに関して早期に伝記を書いたパウル・ベッカーは、これを「(第8交響曲のフィナーレに次いで)マーラーが書いた最も偉大な音楽である」としていた。随分以前の記憶で不確かだが、諸井誠氏は、「マーラーの11曲の交響曲は、楽章構成の点からも、また内容的にも二段階的な発展がある。第6番はその中心に位置する傑作である」と指摘されていたように記憶している。すなわち、下記の図に示したように、ともに最初に作られた形が5楽章構成である1番と7番(後に1番は4楽章構成へと変更)、ともに大きく2部に分かれて変ホ長調で壮大に合唱で終わる2番と8番、そして6楽章で歌を伴う点で共通する3番と「大地の歌」、ともに4楽章構成である4番と9番、ともに5楽章構成である5番と10番というようにそれぞれ対応しており、第6番はその中心的な位置付けにあるといえる。




 この作品の成立背景については、多くのマーラーの伝記に書かれている伝説がある。妻のアルマが1938年から1939年にかけて書いた『回想と手紙』では、この交響曲は「運命の三度の打撃を受けて破滅していく英雄」を描いたとしており、その英雄とは、1907年に長女の死、自身の心臓病宣告、ヴィーンの宮廷歌劇場辞任という三つの悲劇を経験したマーラー自身であり、マーラーの将来を予言したということであった。マーラー自身が交響曲第6番については多くは語っておらず、アルマの回想録がこの曲について雄弁に多くのことを語っているため、その後の多くのマーラーの伝記は、アルマの『回想と手紙』の影響を受けていた。20世紀最大のマーラー指揮者の一人であるバーンスタインですら、上記の解釈を信じて、マーラー第6番の最終校訂版には、ハンマーは2回しかないのに、コーダに1回追加し、「運命の三度の打撃」と映像記録でも語っている。

 しかし、アルマによる『回想と手紙』はマーラーの死後20数年経過した頃に書かれた回想録であり、記憶の不鮮明なところで自分やマーラーを美化し、また虚言が多かったことが、その後の多くの優れたマーラー研究者の研究によって明らかにされている。そもそも「悲劇的」と一般的に使用されている副題は、チャイコフスキーの「悲愴」の場合などとは異なり、マーラーがつけた副題ではない。第4楽章の最後が悲劇的に終わるためにそのような副題がつけられてはいるが、「悲愴」交響曲におけるような絶望的な響きとは異なる。

 そこで今回の指揮者の部屋では、マーラーがなぜこのような稀有な傑作を作曲したのかについて私見を述べて、この曲で問題になりやすい、アンダンテとスケルツォの楽章順、特徴的な楽器の使用について述べたい。


Ⅰ 作曲の時代的背景と曲の示唆するところ


 マーラーの作品は、彼の人生との関わりの中で論じられることが多い。実際、交響曲第1番から第5番までは、マーラーの若いときからの人生観、音楽観、そしてマーラーの歌曲集とも関連が深い。マーラーは多くの歌劇場の音楽監督を歴任していたが、次第に名門歌劇場へと登りつめて、1897年にヴィーン宮廷歌劇場の音楽監督に就任した。また1902年には20歳年下のアルマと結婚し、同年に長女マリア・アンナが出生、1904年には次女のアンナ・ユスティーナが生まれた。秋から春までの音楽シーズンは、ヴィーン宮廷歌劇場の指揮者として多忙な日々を送り、自作を指揮する機会も増えて、1903年と1904年の夏に交響曲第6番のほとんどを作曲した。

マーラーは、仕事上の完璧さを何よりも求める強迫的性格であったが、作品の上では、ベートーヴェンの交響曲第5番に象徴される「苦悩から歓喜へ」という理念などを音楽上でそのまま表現したのは、せいぜい交響曲第5番までであった。第5番や第7番の終楽章は、歓喜のように終わるが、実は勝利のファンファーレというよりは、どこかパロディーであったり、カーニバルのようなお祭りであったりした。そしてその後、マーラーの作風は永遠なものを求める方向に大きく転換していく。

この交響曲第6番は、マーラーの表現しようとするところの転換点となった曲である。マーラーのような完璧主義者は、公私ともに最も幸せと思われる時期に、幸せにひたるというより、むしろ無意識的にも自己存在や人生・未来に対して、自罰傾向や懐疑的傾向が強くなったのではないだろうか。自分が西洋クラシック音楽界の頂点に立ち、家庭的にも最も幸せな時期であるが故に、人間存在がかかえる矛盾や悲劇性、そして生の多様なドラマを交響曲によって表現しているように思われる。

とりわけアルマとの結婚生活は、無意識的にも多くの葛藤を生じたのではないだろうか。交響曲第6番は、4つの楽章のうち3つがマーラーでは珍しく同じ調性であるa mollで統一されているが、アルマのイニシャルと重なっているのは、果たして偶然だろうか。マーラーは交響曲第6番について多くを語っていないが、以下の言及は示唆に富んでいる。

「私の第6番は、私の以前の5つの交響曲を吸収し、それを消化した世代だけが解釈できる謎をなげかけるであろう。」

 マーラーの初期の作品が歓喜や再生をめざしたものであるのなら、その頂点は交響曲第2番にあり、永遠性・超越をめざした後期の作品の頂点は第9番にある。その両者の橋渡しをし、人生の感動、そして人間存在に包含されたドラマ性を最も完璧に示したのが第6番である。アルマの回想録にあるように、マーラーのその後の悲劇を象徴・暗示するといった観点では、曲の解釈を誤ってしまうのではないだろうか。

 晩年の作品では、3つの悲劇との関連は明らかで、交響曲「大地の歌」、交響曲第9番、第10番は、死、あるいは永遠などの主題との関連なしには語れない。しかし中期の交響曲、特に第6番~第8番は、マーラーの当時の人生と直接的には結び付けることなしに、マーラーの音楽的な想念の展開がなされていると考えるべきだろう。マーラーの中で、生や死、超越的世界、永遠などは常に大きな主題であったが、マーラーの交響曲は多様な世界を含めた一つの宇宙であり、その一つとして人間の体験しうる悲劇的な世界もこの交響曲には存在している。

 

Ⅱ アンダンテ楽章とスケルツォ楽章の順番について


 交響曲第6番の中間2楽章をどの順番で演奏するかについては、長い間議論があった。その一番の原因は、最も権威がある国際マーラー協会版によるスコアが1963年版では、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテとして出版されたのに、2003年には国際マーラー協会がアンダンテ→スケルツォの順が正しいと修正し、2010年に第2楽章アンダンテ、第3楽章スケルツォで刊行されたからである。このような混乱をきたした原因としては、マーラー自身の迷いがあったようである。

マーラーは3回、交響曲第6番を指揮している(第7番、第8番は初演の指揮しかしておらず、第6番はマーラーが複数回指揮をした最後の交響曲となった)。1906年のエッセンでの世界初演、1906年のミュンヘン初演において、アンダンテ→スケルツォの順番で演奏した。最後のマーラー自身の指揮による1907年のウィーン公演で、マーラーは中間2楽章の順番を迷って、一時スケルツォ→アンダンテの順にしようとしたが、最終的には、やはりアンダンテ→スケルツォの順番となった。

マーラーは4楽章構成の交響曲を全11曲中4曲しか残していない。第1・4楽章という重要な楽章がともに緩徐楽章となっている第9番は例外として、第1番、第4番では性格は全く異なるとしても第3楽章が緩徐楽章となっている。歴史的に考えると、古典派からロマン派前半にかけて、すなわちハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナー(の中期)までは、第2楽章が緩徐楽章と決まっていた(ベートーヴェンの交響曲第9番は例外であった)。その伝統が変わったのは、19世紀の終わり頃からであった。マーラーは交響曲第6番の作曲にあたり古典的な様式を大切にして交響曲を作曲しようとした。第1楽章の提示部にマーラーでは非常に珍しいリピート(反復)記号があるのもその一例である。このように古典的な様式感に近づけるため、マーラーはアンダンテ→スケルツォの順にしたのではないだろうか。

しかし、今回の演奏会で、あえて昔風にスケルツォ→アンダンテとしたのは以下の考えによる。アンダンテ→スケルツォとした場合、印象としては、曲の悲劇性は深くなり、スケルツォ→アンダンテとした方が悲劇からの救済の可能性について少し語られることになるだろう。マーラーがウィーンで交響曲第6番を指揮したのは、1907年の1月だった。この時期のマーラーは交響曲第8番をほぼ完成させており、超越や救済のテーマはマーラーの思考に影響を与えていたので、マーラー自身、中間2楽章の順を迷ったのではないだろうか。

また、交響曲のように複数の楽章がある場合でも、名曲では全曲の2/3を超えたあたりに、最も核心的なところ、また最も美しい部分があることが多い。第3楽章の最後の3分間くらいは、マーラーが作曲したあらゆる曲の中で、最も美しい箇所の一つである。今回はそのような観点から第3楽章をアンダンテにした。また、演奏のエネルギーを極度に要求される第4楽章の前の対比という意味でも第3楽章がアンダンテの方が演奏者にとって、はるかに演奏しやすい。


Ⅲ 交響曲第6番における打楽器・鍵盤楽器


 打楽器の使用については、マーラーのあらゆる交響曲の中で第6番ほど独創的な曲はない。交響曲第6番は、様々な打楽器など、それまでにマーラーが使用したことがなかった楽器を取り入れられているが、その中でも特筆するべき楽器はハンマーとヘルデングロッケン(カウベル)とチェレスタである。ハンマーについては、全曲がほとんど出来上がってから付け足された楽器であり、マーラー自身によって、「金属的な音ではなく、重い鈍い響きで」と指定されているので、木製の台を木製のハンマーでたたくことになる。1905年5月の自筆スコアでは5回、1906年3~4月の第1版(第1稿)では3回、同年内の第3版(第2稿)では2回と減っていった。(2回に減った1906年当時は、マーラーは超越を高らかに歌った交響曲第8番の作曲にまさに取り組んでいる時期でもあった。)

残された2回というのは、第4楽章で、最も闘争的な雰囲気になる展開部2ヶ所で使用されているので、その衝撃は大きくても想定範囲内のものである。これに対して、最終的に削除された3ヶ所は、いずれも第4楽章の第1ヴァイオリンによる冒頭主題が繰り返し演奏されるフレーズの7小節目に加えられたもの(小節数では9小節、530小節、783小節)で、その箇所で演奏されると衝撃は異様であり、削除されたのが当然だろう。

ハンマーより音楽的に重要なのはチェレスタとヘルデングロッケンである。チェレスタは1886年に初めて作られた楽器で、天上の場面あるいは彼岸の世界を表わすために用いられている。ヘルデングロッケンは、英語で言えばカウベルである。アルプスなどで牛などを放牧する時に、牛の所在がわかるようにベルをつけたものが楽器になったのだが、交響曲第6番の演奏において、ヘルデングロッケンは舞台裏に置かれるので聴衆からは見えない。複数個必要で、牧歌的なものを象徴するのではなく、遠くの別の世界、あるいは世界から置き去りにされたような雰囲気を作り出すために使用されている。


おわりに


 伊勢管弦楽団では皆様のおかげで、第7回定演の交響曲第10番アダージョに始まり、この約30年間でマーラーの交響曲全11曲中9曲を演奏できることになりました。この30年余りの歴史において、初期・中期に演奏した「大地の歌」や交響曲第5番は指揮者の未熟さ、当時の伊勢管の力量を考えると無謀と言える演奏会でしたが、マーラーの交響曲の中でも1,2を争う難曲でもあり、解釈の難しい第6番については、伊勢管の成長した姿もある程度聴いていただけるのではないかと願っています。

最後に恐縮ですが、マーラーの交響曲第6番を心から愛し、またこのような難曲への挑戦が可能になるほど、伊勢管弦楽団の発展に多大な御尽力をいただいている名誉コンサートマスターの上村宰史さんに、この場をお借りして、こころからの感謝の想いを書かせていただきます。今回の演奏会も、上村さんの存在がなければ、あり得なかった演奏会だと思っています。

 次回の指揮者の部屋では、交響曲第6番の楽曲分析を試みたいと考えています。



伊勢管弦楽団 音楽監督  大谷 正人


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