三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。
マーラーの交響曲第3番
2022年04月23日 10:16譜例はこちらをご覧ください。
はじめに
新型コロナウイルスの感染が2年以上にわたって続くという想定外の厳しい状況のもと で、40 周年記念定期演奏会を1年遅れではありますが、2022 年5月 15 日に開催する予定 となりました。マーラーの交響曲第 3 番は、規模の大きいマーラーの交響曲の中でも、演奏 時間約 100 分と最長を誇る曲です。今回の指揮者の部屋では、第 40 回記念定期演奏会が無 事に実現することを祈りながら、交響曲第3番の解説をさせていただきます。
I 成立の背景 ―標題について―
交響曲第3番は、1895 年から 1896 年にかけて作曲された。マーラーは、自身の交響曲 について、すべてを包含する宇宙的なものと考えていたが、それは以下の 1896 年6月 28 日付けのアンナ・フォン・ミルデンブルグ(ソプラノ歌手で、マーラーのハンブルク時代の 恋人)への手紙にも書かれている。 「......けれど僕は、いま大きな作品に取りかかっていると書いたはずだね。この仕事がどれ ほど僕の存在すべてを支配してしまうか......。世界全体を映し出すような巨大な作品を頭 に描いてごらん。ひとは言わば宇宙全体を奏でる楽器のひとつにすぎないんだ。......僕の交 響曲は、世界中の誰もがかつて耳にしたことのないようなものになるだろう。その中ではす べての自然が語りだし、恐らくは夢のなかの出来事のようにしか思われない、奥深い神秘が あらわになる。......」
交響曲第3番は、マーラーが作曲した最後の標題性の強い交響曲である。しかし 1900 年 のカルベック(ドイツの音楽ジャーナリスト)宛の書簡では、以下のように書いている。 「ベートーヴェンこの方、何らかの内的な標題を持たない音楽はありません。けれども、なかで何が体験されたのか、あるいは、何を体験せねばならないかを、まずもって聴き手に教えておかねばならないような音楽は、なんの聴く価値もありません。ですからもう一度言い ましょう。滅びよ、標題よ!と。......」
交響曲第3番は、1898 年に第1番、第2番の場合と同様に、標題をすべて削除した形で 出版された。しかしながら、この巨大な曲を理解するために、標題は非常に重要な手掛かりを与えてくれる。1896 年8月6日付のマルシャルク(ドイツの音楽批評家兼作曲家)あて の手紙では、「僕の作品が完了した」と書くとともに、各楽章の最終的な標題が以下のよう に記されている。
夏の真昼の夢
第1部
<序奏> パン(牧神)が目覚める
<第1楽章> 夏が行進して来る(バッカスの行進)
第2部
<第2楽章> 野原の花々が私に語ること
<第3楽章> 森の動物たちが私に語ること
<第4楽章> 人間が私に語ること
<第5楽章> 天使たちが私に語ること
<第6楽章> 愛が私に語ること
本来第7楽章に予定されていた「天上の生活」は、交響曲第3番からはずされて、第4番の第4楽章に用いられることになった。これは、第6楽章アダージョが、あまりに規模が大きくなり、内容が深くなったので、マーラーが曲全体のバランスを考えて、そのように決断したと思われる。楽章の順には意味が大きく、自然、花、動物、人、天使、愛と次第に高み を目指していくのが、よくわかる。
II 各楽章の構成
第1楽章
<牧神が目覚め、夏が行進して来る(バッカスの行進)>
演奏時間が 34 分ほど要するこの巨大な第1楽章は、上述したような標題音楽~絶対音楽 の両方の要素をもった楽章である。まず、標題的要素としては、次のような流れがマーラー 自身の手紙などから確認できる。マーラーが標題的な記載をしたのは、序奏、提示部、展開 部までで、以下のようになっている。
冒頭:「起床の合図」
練習番号 11:牧神は眠っている
練習番号 12:先触れ(先触れは Herold の訳、Herold は使者、重要な知らせの告知者などの意味)
練習番号 44:騒乱(または群衆) 練習番号 49:戦闘開始
練習番号 51:南方の嵐
全体の雰囲気としては、行進曲が中心であるが、自然が生まれだす原初的な響き、葬送行 進曲、無言歌、軍楽隊など多彩な要素にあふれている。絶対音楽の視点からは、明らかにソ ナタ形式にのっとっている。全曲の冒頭で、いきなり 8 本のホルンのユニゾンで力強く吹 かれる第 1 主題(譜例 1)は、第 1 楽章の行進曲風、あるいは原始的な雰囲気を象徴する。同 じくホルンのユニゾンで奏でられる第 2 主題(譜例 2)は、第 6 楽章のクライマックス(譜例 10)においても再現されるという意味でも重要である。第 3 主題(譜例 4)は、「牧神は眠って いる」の部分で演奏される柔和な性格のものである。また、第 2 主題と第 3 主題の間で、ト ランペットで何度も奏でられる譜例 3 の動機は、第 4 楽章(譜例 6)、第 6 楽章で深い意味をもつようになる。
展開部までの雰囲気を理解するためには、上記の標題は参考になるが、そこに物語性があ るわけではなく、再現部になると、マーラーによる標題の記入はなくなり、より凝縮された 表現となり、より絶対音楽的な表現となっていく。なお、マーラーはどの曲でも第 1 楽章から順に作曲していったが、第3番の場合、第1楽章が最後に完成したことがわかっている。 標題音楽から絶対音楽へというマーラーの考え方の変遷が、この第 1 楽章の中でも確認で きる。
第2楽章
「野原の花が私に語ること」という標題があった第 2 楽章はメヌエット風の主部がスケルツォ風のトリオに 2 度交替するという形式になっている。マーラーは、この楽章について、バウアー=レヒナーとの会話で以下のように語っている
(一部省略)。 「それは、僕がこれまでに書いた中で最も屈託のない、花だけがそうであり得るような屈託のない作品だ。それらすべては、しなやかな茎をもつ花々が風の中で揺れ動くように、揺れ 動きさらさらと鳴る。...しかし、無邪気な花のような軽快さはいつまでも続くわけではなく、それは突然深刻で重苦しいものになってしまうことは、きみにもよく想像がつくだろう。ひどい嵐が草原を吹きぬけ花や葉を揺るがす。花や葉は、まるでより高い世界への救済を乞い願うように、うめきすすり泣くのだ」
第3楽章
「森の動物たちが私に語ること」と当初標題のあった第 3 楽章は、スケルツァンド(Scherzando)とマーラーは書いている。本来スケルツォは速い 4 分の 3 拍子なので、ここでは「陽気に、スケルツォ風に」という意味だろう。スケルツォ風以外にも、ポルカ的な部分もあるこの躍動的な第 3 楽章で印象的なのは、ポストホルンによる 2 つのエピソードで ある。孤独な音が森の中をあてどなくゆっくりと流れていく、といったイメージであるが、 2 回目のポストホルンによるエピソードの後、曲は突然盛り上がり、喧騒の中終わる。
第4楽章
「人間がわたしに語ること」という標題が初めにつけられていた第4楽章では、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」第4部第 19 章「酔歌」から歌詞がとられている。 歌詞の概要は今のようである。
「おお、人間よ! 心して聞け!/深い真夜中は何を語る?/わたしは眠った!/深い夢 からわたしはめざめた!/世界は深い!/昼が考えたよりも深い!/世界の痛みは深い! /悦び―それは心の悩みよりいっそう深い!/痛みは言う、去れと!/しかし、すべての悦 びは永遠を欲する!/深い、深い永遠を欲する!」
夜の鳥の鳴き声が何度も現れて、徹底的に夜の雰囲気の中で歌われるこの歌詞は、意味も 難解である。譜例 5 にあるように語りが中心であるが、譜例 6 の主題は、間奏部で一度提 示された後、曲の後半で「すべての悦びは永遠を欲する」と歌われ、この内省的な楽章の中で最も訴えかけの強い部分となっている。ニーチェによる歌詞であるが、ニーチェの哲学と マーラーの世界観は、相容れないものである。ニーチェは無神論者であるのに対して、マーラーは超越的なものを常に求め続けていた。マーラーがニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」から歌詞をとってきたのは、交響曲第3番の中で、人間を悩める存在として、自然の世界と、愛そして神の世界の間に置くというこの第3番に象徴される世界観などを表 現するのに適切と判断したためではないだろうか。
第5楽章
「天使たちが私に語ること」という標題がつけられていた第5楽章は、女声合唱、少年少女合唱、アルト独唱が加わり、ヴァイオリンが演奏しないという特殊な編成によっている。歌詞は、「子どもの魔法の角笛」の中の曲「3人の天使が歌った」によっている。この曲は、オーケストラ伴奏歌曲としての「子どもの魔法の角笛」には含まれておらず、ピアノ版だけが出版されている。内容としては、ペテロの罪(十戒を破ったこと)とイエス・キリストに よる赦免の物語を主題にしている。曲は3部からできており、最初は「3人の天使がペテロ 様の罪が許されたと歌い、喜びにあふれた祝福の調べが天国に響いていた」という内容で始まる。中間部はアルトがペテロ役になり、どうして泣いているのかというイエスの問いに対して「私は十戒を破ってしまったので、表に出て泣いてこようとしていたのです。私に憐れみをください」と歌う。この後、曲は葬送行進曲のような雰囲気となり、合唱は鐘の音を鳴 らし続けるが葬送の響きのかき消されてしまう。その後で女声合唱はイエスの言葉として 「十戒を踏み外したと思うのなら、神に向かって祈りなさい。神をひたすら愛することだ。」と語り、曲は天国の歓喜につつまれて喜びの中に終わる。
第5楽章は、当初は「朝の鐘が私の語ること」という標題であった。合唱(特に少年少女 合唱)が歌う Bimm Bamm という歌詞は、鐘を模倣したもので、スコアでも鐘(グロッケ ン)とともに少年少女合唱のパートは天からの音として最上段に書かれている。
第6楽章
「愛が私に語ること」という第6楽章の標題に関して、マーラーは友人への手紙で次のように述べている。 「〈愛が私に語ること〉、それは、創造されたものすべてに対する私の感情の総括なのです。 深い痛みを伴った出来事を避けることはできませんが、しかし、それらはしだいに晴れやか な祝福に満ちた確信〈悦ばしい知〉に到達するのです。」
第6楽章は、ソナタ形式、あるいは変奏曲形式とも考えられる、マーラーの交響曲第9番 の終楽章を先取りするような形式となっている。主要主題は三つあり、感動を内に秘めた冒 頭の第 1 主題(譜例 7)、続くチェロによる包容しながら高まっていく第 2 主題(譜例 8)、そ して悲痛さをたたえたコラール主題(譜例 9)である。この楽章では、大きく4部構成になっ ている。第1部~第3部では、3つの主題がからみあって、愛~慰め~祝福といった世界と 深い痛みが対比されながら、曲の後半に向って何度もクライマックスが形成されているが (譜例 10 など)、そこには第 1 楽章の第 2 主題(譜例 2)や第 4 楽章の主要主題(譜例 5 およ び譜例 6)の変奏も挿入されて。全曲の統一性を高める工夫がされている。
第 6 楽章についてマーラーは友人のバウアー=レヒナーに「これでイクシオンの輪が止 まる」と述べたと伝えられている。「これでイクシオンの輪が止まる」という表現は、マーラーが当時愛読していたショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」で「魂の平安が 訪れる」という意味で、マーラー研究者の前島良雄氏は、著作の中で「死による魂の平安」 が訪れると解釈している。この解釈については、賛否両論があると思われるが興味深い。第 6 楽章の再現部(第4部)に相当するところで、これまでのドラマをのりこえてトランペッ ト、トロンボーンだけで第 1 主題が sempre ppp で奏でられる部分は、死をも越えた愛を象 徴しているのではないだろうか。そして第 6 楽章の最後の 13 小節でニ長調の主和音が ff で 堂々と続くという表現は、決して勝利のファンファーレではなく、愛が死をこえて永遠に続 くというマーラーの確信の表現であるように思われる。
おわりに
交響曲第 3 番は、その長大さや編成の特異さなどのため、演奏される機会は多くないです。しかし、この曲はマーラーの世界観が表現されている非常に重要な曲です。音楽の喜びと感動を人々と共有できる要素にもあふれているという点で魅力的な名曲です。伊勢管弦楽団は、これまで 9 曲のマーラーの交響曲を演奏してきました。コロナ禍の中ですが、伊勢管弦楽団にとって 10 番目のマーラーの交響曲であるこの第 3 番の演奏における感動を、 2022 年 5 月 15 日に共有できるよう、最善を尽くしたいと祈っています。
伊勢管弦楽団 音楽監督 大谷 正人
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