三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。


マーラーの交響曲「大地の歌」(その1)

2024年01月20日 08:41

はじめに

 伊勢管弦楽団では、団員の情熱や熱烈な団友のご助力もいただき、これまでに定期演奏会などでマーラーの全11曲の交響曲中10曲を演奏してきました (未完成の交響曲第10番は、第1楽章アダージョのみ) 。これらの中で、過去に2回の時期に分けて演奏してきたのは、交響曲第2番、交響曲「大地の歌」、交響曲第9番の3曲だけでした。今回マーラーの交響曲として初の3回目の挑戦となる「大地の歌」は、過去に第9回(1990年)、第20回(2001年)に演奏しました。伊勢管弦楽団の定期演奏会で同一の曲を3回演奏すること自体が前例がありません。ふり返ると、第9回は、第8回で山田一雄先生を指揮者にお招きして、充実感があったその時の勢い、また第7回の交響曲第10番で本番が予想外によい演奏ができたという思い込みがあって、私自身の指揮もオーケストラとしても極めて不十分な段階でもあったのに演奏してしまい、今からふり返ると全く無謀な挑戦でした。第20回の時は、第8回の時よりはオーケストラとしては進歩はみられるものの、マーラーの超難曲を演奏するのには、私自身はもちろんのこと、伊勢管弦楽団のメンバー構成も不十分なものでした(当時のプログラムをふり返っても、エキストラが半数近くを占めていました)。伊勢管弦楽団がアマチュアオーケストラとして、一定の力量を身につけてきたのは、第25回(2006年)の交響曲第8番の前後からではないでしょうか。

 今回第42回の定期演奏会の曲目として「大地の歌」をとりあげていただいた背景としては、個人的には、この不滅の名曲のよい演奏をしたいという思い、またこの1年間は、定期演奏会の曲の練習が中心になることがわかっていたため、約10か月の練習に耐える名曲を演奏したいということがありました(交響曲第9番の時も、マーラー音楽祭での演奏前までには約1年間練習をしたと思います)。ソロ合わせも、例年だと前日、当日以外、通常ではあと1回ですが、アンサンブルの難しさもあり、今回はさらに1回追加でお願いできました。

 そこで、今回の指揮者の部屋では、「大地の歌」について2回に分けて、1回目は、曲の成立状況や「大地の歌」にこめられたマーラーの思いなどについて私見を述べさせていただきたいと思います。やや独自の解釈となるため、参考程度にご一読いただければ幸いです。

Ⅰ 「大地の歌」の成立の事情

 マーラー(1860-1911)の生涯の中で、1907年はマーラー個人としても創作活動の上でも、最大の転換点となった年であった。約10年間続けていたウィーン宮廷歌劇場の音楽監督については、辞任の方向で考えており、1907年6月にニューヨークのメトロポリタン歌劇場の支配人と契約を交わした。6月後半に夏季休暇に入ってマイアーニヒに移り、作曲に専念するはずであったが、長女マリア・アンナは猩紅熱とジフテリアを発症し7月12日に急死した。愛していた長女の死から数日後に、マーラー自身が心臓に問題があると指摘されてしまって、夏季休暇に好んでしていた山歩きなどの激しい運動を禁止された。

1907年初秋には、中国の詩を自由に翻訳したものを集めたハンス・ベトゲの「中国の笛」を手に入れたマーラーは、その詩集に没頭しながらも、1907年12月には、ニューヨークに向かって出発し、1907年冬~1908年春のシーズンにはメトロポリタン歌劇場での仕事をこなし、1908年に新しい夏の滞在先にトープラッハを選び、そこで「大地の歌」をほとんど完成させた。

ベトゲによる83余りの詩集から7つの詩を選んで作曲し、マーラーはその曲を「大地の歌」(副題として「テノールとアルト独唱とオーケストラのための交響曲」)と名付けた。交響曲第9番としなかったことについて、ベートーヴェンやブルックナーが交響曲第9番が最後の交響曲となったため、同様に自身の最後の交響曲になることを恐れて、交響曲「大地の歌」としたと言われてきたが、それはアルマ・マーラーがそのように伝記の中で書いてきたことが信じられてきてしまったためであり、マーラーがそのような迷信を信じていたという説は疑わしい。

マーラーの作風が1907年を契機として激変したのは明らかであり、生と死、愛、喜び、祈りなど様々な問題を追及してきたマーラーであるが、「大地の歌」でマーラーがなしとげたことは、何よりも死の受容の問題であった。ベトゲの詩集から第1曲「大地の哀愁を歌う酒の歌」、第3曲「青春について」、第4曲「美について」、第5曲「春に酔う歌」は漢詩の詩人として最も有名なLi-Tai-Po(李大白)(701~763)によるものであった。第6曲「告別」は、二つの詩によるもので、Mang-Kao-Jen(孟浩然)、Wang-Wei(王維)によっており、この二人は友人であり、この2編の詩は同じ出来事にもとづいているようである。第2曲「秋の日に孤独なもの」はTchang-Tsiによるもので、以前は銭起によるものとされてきたが、銭起作には異論がある。

Ⅱ 「大地の歌」のもつ意味について

 マーラーが6つの楽章の中で成しとげていることは、死の受容そのものである。死の受容は絶望(否認)→取り引き→抑うつ→受容などの過程を経ると言われているが、第1楽章が絶望、第2楽章が抑うつ、第3楽章~第5楽章は取り引き、そして第6楽章で受容に到る。これらの楽章で最も重要な2つの楽章、つまり第1楽章、第6楽章はともに明らかなソナタ形式となっている。第1楽章は冒頭の第1主題が全曲を統一しており、それが極めて明白に示されており、演奏時間は10分弱だが構成が見事な楽章となっている。第6楽章は演奏時間が全曲の半分を占めるばかりでなく、死の受容が2段階でなされていることが重要である。第1段階では、冒頭から葬送行進曲様に始まるが、167小節目からの4分の3拍子で、自然の中で「ただ美よ!おお 永遠の愛と命とに酔いしれた世界よ!」と歌われた部分までで、自然と一体化するという形で表現されている。その後、第2段階に入る。288小節目から15小節間の短い間奏を経て71小節に及ぶオーケストラだけによる葬送のすばらしい間奏部がある。その後は、友との告別の場面が続くが、460小節目からコーダに至るところがマーラー自身の詩によっており、全曲の中で最も核心となる部分である。

 「春になれば、愛する大地では、再び到るところで花が咲き乱れ、緑が芽をふくのだ!

到るところで、永遠に、はるか彼方の四方まで青く光り輝く。永遠に、永遠に!」

この歌詩や音楽の示すところは、人生への別れではなく、苦難や死を受け入れながらマーラーが生きていこうとするその思い、すなわち再生を象徴しているのではないだろうか。

マーラーは、「大地の歌」について多くは述べていない。

 「勤勉に仕事に取り組んでいる(つまり新しい環境にすっかり「順応した」というわけだ)。この作品全体をどのように名づければいいのか想像もつかない。素晴らしい時間をとり戻すことが許されたのだ。おそらくこれが、今までに作曲したものの中で、最も個人的色合いの強い『作品』となると思う。」

 以上のような手紙を、マーラーは1911年に「大地の歌」を初演したブルーノ・ヴァルターに1908年8月末頃に書いているが、「大地の歌」はマーラーの人生への別れの曲のように、しばしばこれまで誤解されてきた。シェーンベルクは「大地の歌」こそマーラーの作品の中でも「未来に向けて最も突出したもの」と述べているが、マーラーは1907年の苦難の年を乗り越えて「大地の歌」、交響曲第9番、そして未完成の交響曲第10番へと、マーラー自身ですらこれまでに到達し得なかった新たな領域へと達し、人類に永遠に残る作品を残したのである。

おわりに

 次回の指揮者の部屋では、「大地の歌」各楽章の内容とその分析を歌詩の紹介も含めながら、解説させていただきたいと思います。

(文責:大谷 正人) 

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