三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。


プーランクの2台のピアノのための協奏曲

2020年03月22日 06:48

譜例はこちらからダウンロードして御覧ください。


Ⅰ.はじめに

プーランクは、20世紀に主流となった調性の不明瞭な曲ではなく、純然とした調性音楽の中で親しみやすい曲を数多く作曲しました。わかりやすくても野暮にならず、魅力あふれる歌や自由闊達な作品を幅広いジャンルで残した20世紀のフランスを代表する作曲家の一人ですが、プーランクの生涯や作品は日本ではなじみが深いとはいえません。そこで、今回の指揮者の部屋では、まずプーランクの生涯を概説し、2台のピアノのための協奏曲について述べたいと思います。


Ⅱ.プーランクの生涯

 フランシス・プーランクは1899年にパリの中心部で生まれた。父エミール・プーランクは実業家で大企業の共同経営者であった。母親ジェニー・プーランクは工芸家の一族出身で、ピアノを見事に弾ける能力があったが、プーランクが16歳のときに50歳という若さで亡くなってしまった。

5歳からピアノを弾くようになったプーランクにとって、一番大好きな作曲家はモーツァルトであり、一番衝撃を受けたのは、ドビュッシーであった。他にストラヴィンスキーやシャブリエからも影響を受けた。家庭環境に恵まれたプーランクは、音楽や文学の素養を身につけながらもパリ音楽院への進学を希望したが、「音楽は一般的な勉強を終えてから」と考えていた父親の反対で、パリ音楽院にはいけなかった。しかし、ヴィニェスという名教師のもとでピアノだけでなく、文学や絵画の世界への造詣も深めて、サティやラヴェルなど、さまざまな音楽家とも知り合うことができた。1918年には、第一次世界大戦のため兵役に服した。10代の後半から歌曲の作曲などによって注目され始めたプーランクは、1919年第一次世界大戦が終わった狂乱の時代のパリで、フランス6人組の一人として作家コクトーによって紹介された。6人組とは、年の順にデュレ、タイユフェール、ミヨー、オネゲル、オーリック、プーランクの6人で、プーランクは最年少であった。フランス6人組という名称は、リムスキー=コルサコフなどによるロシア5人組からヒントを得た呼び方であったが、コクトーの優秀な企画力のおかげもあり、プーランクの仕事も増えていった。1921年からは、ケクランについて作曲を学んだ。

 プーランクの最初の出世作は、バレー音楽「牝鹿」(Les Biches)であった。1923年に完成された「牝鹿」は、ディアギレフ・バレー団の依頼もあり、モンテカルロでの初演、パリ初演も成功した。1928年プーランクは幼なじみの親友レイモンド・リナシエに結婚を申し込むが、プーランクの同性愛傾向を知っていたリナシエに断られてしまった。リナシエはプーランクより2歳年上であったが、フランス文学に精通しておりプーランクが生涯に結婚を望んだ唯一の女性であった。リナシエは1930年に32歳という若さで病死したため、プーランクは大きな衝撃を受けた。1931年に世界恐慌の影響からプーランクが貯金をしていた銀行が倒産し、プーランクは経済的に危機に陥ったが、ポリニャック大公妃から「2台のピアノのための協奏曲」の作曲の委嘱を受けた。1932年に2ヵ月半という速さで完成させた。

 1934年歌手のベルナックから歌曲の伴奏を依頼されて、プーランクとベルナックは20年以上、歌曲の演奏続けたが、同時にプーランクの中心的なジャンルでもあった歌曲の作曲を高めることになった。1939年に始まった第二次世界大戦でフランスはドイツ軍に圧倒されて、ドイツに協力的なヴィシー政府が独仏休戦協定を結んだこともありのためプーランクの従軍は5週間で終わり、第二次世界大戦中はピアニストとしての演奏活動が中心となった。しかしその中でもカンタータ「人間の顔」では、ドイツ軍や戦争に対する憤りを表現していた。またパリがドイツ軍から開放された1944年には喜歌劇「ティレジアスの乳房」を完成させた。

プーランクのもとに作曲依頼も増えて、飛行機事故によって夭折した天才ヴァイオリニストのヌヴーに依頼されて1949年にヴァイオリン・ソナタを作曲したり、「チェロの貴公子」とも呼ばれていたフルニエに委嘱されたチェロ・ソナタを作曲したりした。合唱の世界でもプーランクは偉大な足跡を残した。1950年に完成した「スターバト・マテール」と1960年に作曲した「グローリア」である。第2次世界大戦後にプーランクは何度かアメリカ旅行をするなど、各地で演奏旅行をしながら、多忙な中でも歌劇「カルメル会修道女の対話」(1955年作曲)、フルート・ソナタ(1957年作曲)などの重要な作品を作曲している。プーランクの作品では最も有名な曲の一つである即興曲第15番「エディット・ピアフ讃」も晩年の1959年に作曲された。1960年1月30日(リノシエの命日)、前日まで活動的に過ごしていたが、プーランクは心臓発作(肺塞栓症という説もあり)のため急死した。享年63歳であった。


Ⅲ.二台のピアノのための協奏曲

プーランクの最大の魅力は、美しい造型的な旋律にあふれており、それらの旋律が多彩に変化しながら全曲の中で見事に均整感をもって取り入れられていることである。20世紀の音楽としては不思議な程、調性感が明瞭だが、多彩な転調や豊かなリズムのため、陳腐な印象を与えない。

「二台のピアノのための協奏曲」は1932年、プーランクが33歳という比較的若い頃の作品である。プーランクはピアノの名手であったこともあり、ピアノ曲、室内楽曲、声楽曲などにすぐれた作曲を多く残しているが、この協奏曲はポリニャック王妃からの依頼により作曲された。モーツァルト、ラヴェルをはじめ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラフマニノフ、バリ島のガムラン音楽など、様々な音楽的特徴をとり入れて、プーランク風に仕上げた協奏曲である。第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ、第2楽章 ラルゲット、第3楽章 アレグロ・モルト、という伝統的な形式をとっているが、テンポの移りかわりも自由で、ファンタジー(幻想曲)のようでもある。

第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ 4分の4拍子

 第1楽章は、急・緩・急・緩というテンポ設定となっている。二台のピアノによる勢いのある導入部に続いて、低音部と高音部が躍動的に対話するような主題(譜例1)、陽気な二つの主題(譜例2,3)が続く。「緩」のレントの部分(譜例4)への移り変わりも突然である。「急」の転換も同様にめま苦しい程であるが、第1楽章の最後で意外にもテンポは再び遅くなり、第2楽章の雰囲気を予感させて第1楽章を終える。

第2楽章 ラルゲット 2分の2拍子

 冒頭の主題(譜例5)は、いかにもモーツァルト風で、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」の第2楽章を思い出させる。その後の曲はプーランクらしい豊かな旋律を奏でながら進んでいく。冒頭の変ロ長調から突然、変ホ短調の第二主題(譜例6)に移りかわるところも、上品なメランコリーをたたえている。中間部は変イ長調になりテンポは速くなり、2つの主題(譜例7,8)からできている。どちらの主題も十分に展開されてから、テンポのゆったりした主部にもどり、おしゃれなエンディングで終る。「他のどの作曲家よりも愛するモーツァルト風にした」とプーランクが語った素敵な楽章である。

第3楽章 アレグロ・モルト 2分の2拍子

 無窮動のような前奏に引き続き、リズミカルな性格の第1主題(譜例9)があらわれ、展開される。よりメロディックな第2主題(譜例10)は、快活な第3主題(譜例11)をおりまぜながら展開されていく。第3楽章の後半でテンポは一層ゆるやかになり、やさしい穏やかな旋律(譜例12)が新たに重要な役割をはたすが、冒頭の雰囲気にもどり、華やかに躍動的に曲を終える。


伊勢管弦楽団 音楽監督  大谷 正人

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