三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。


プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」

2024年03月20日 18:22

Ⅰ.プロコフィエフの生涯

 プロコフィエフは、1891年4月11日(新暦23日)にウクライナのソンツォフカという農村に生まれた。父親は農業技術者、母親は農奴の家に生まれた。母親は、6歳の時にロシアでは農奴解放となったという時代背景もあり、すぐれた知性と音楽性を発揮できて、ピアノも演奏していた。プロコフィエフは5歳半から作曲を始め、ペテルブルク音楽院で10年間学び、1914年にはピアノ科を主席で卒業した。また、1917年のロシアにおける社会主義革命の後1918年にシベリア、そして日本経由でアメリカに向い、1920年代はヨーロッパで生活してピアノ協奏曲第3番をはじめ多くの名曲を作曲し、ピアノも演奏していた。ソビエト(以下、ソ連)へは1927年から時々訪問していたが、1930年代になってプロコフィエフ自身が抒情的なわかりやすい音楽を求めるようになって、1933年に15年ぶりでソ連に帰り、モスクワに定住した。しかしながら、ソ連における政治の恐ろしさはプロコフィエフの予測を超えたものであり、1936年と1938年の2度の演奏旅行以外は、帰国後、外国に行くことはできなかった。「ロメオとジュリエット」の作品も最初は、レニングラードで上演予定であり、当時のソ連共産党の要求としては、ロメオが早く墓場に到着し、ジュリエットが生きているのを見つけてハッピーエンドで終わるというものであった。また、上演に向けての過程で音楽も酷評されたため、プロコフィエフは第1組曲、第2組曲を先に初演し、バレエの方はソ連共産党当局の影響が及ばないチェコスロヴァキアのブルノ劇場で、本来の悲劇の形で1938年12月30日に世界初演された。これが大成功であったため、ハッピーエンドを取り下げるというように、レニングラードのキーロフ劇場や当局も態度を一転させ、ソ連初演が1940年になされた。(注)

 「ロメオとジュリエット」作曲後の数年間は交響曲第5番や、4曲のピアノ・ソナタ、2曲のヴァイオリン・ソナタ、歌劇「戦争と平和」など、プロコフィエフの作曲の全盛期であった。しかし、1948年以降は政治の音楽への干渉はさらに顕著になっていった。

プロコフィエフの最初の妻リーナも外国との関係を疑われ、1948年2月末にリーナは秘密警察に逮捕され、1956年に釈放されるまで強制収容所で過ごすことになった。プロコフィエフ自身も脳疾患(脳震盪?)に悩まされ、1945年から亡くなる1953年3月5日まで作曲時間を医師から制限されていたが、最後まで作曲を続けていた。交響曲第7番が、完成させた最後の作品であった。なお、スターリンもプロコフィエフと同じ日に死去した。

(注)「ロメオとジュリエット」の初演までの経緯についてプロコフィエフ自身は、自伝の中で以下のように書いている。「『ロメオとジュリエット』をハッピーエンドにするというわたしたちの試みについて大騒ぎが起こった。この少し野蛮な発想の原因は純粋に振付だった。つまり、生きている者は踊れるが、死んだ者は踊れない。しかしわたしの考えを変えさせた本当の理由は、ある人が「はっきり言って、あなたの音楽は結末で本当の喜びをまったく表現していない」と述べたことであった。それはまさに真実だった。振付師たちと数回打ち合わせをした後、悲劇の結末も踊りで表せる方法が見つかり、音楽も原作に従って作曲されることになった。」(プロコフィエフ:自伝/随想集.田代薫訳、音楽之友社より)

しかし、プロコフィエフの自伝におけるこの記述をそのまま真の事実として認めることは難しいのではないだろうか。というのは、ソ連では当時、芸術家たちが次々と姿を消し、拷問を受けて命を失っていた。プロコフィエフがソ連の当局に配慮せずに自伝を書くことは不可能であった。

Ⅱ.「ロメオとジュリエット」について

 1934年のレニングラードのキーロフ劇場からの委嘱もあり、シェイクスピアの悲劇「ロメオとジュリエット」のバレエ化を具体化させて、1935年に52曲からなる全曲譜を完成させた。前述のように1936年には、7曲からなる第1組曲、1937年には同じく7曲からなる第2組曲、さらに1946年には6曲からなる第3組曲として編曲し初演した。

 バレエ全曲版は上演に150分を要する大作であり、伊勢管弦楽団の第42回定期演奏会では、ロメオとジュリエットの愛とその悲劇に焦点をしぼった選曲となっている。

1.モンタギュー家とキャピュレット家(第2組曲の第1曲)

 冒頭の悲劇的な前奏は、「大公の宣言」からとられている。第1幕第1場の最後の場面で、モンタギュー家とキャピュレット家のけんか~決闘に対して、ヴェローナ大公が一同に武器を収めるように命じて、今後ヴェローナの平和を乱す者は死刑に処すと宣言する場面での音楽である。その後の主部は、威圧的な「騎士たちの踊り」(譜例1)の主題にホルン、トロンボーン、チューバによる「反目の主題」(譜例2)が加わる。静かでゆったりとしたテンポの中間部(譜例3)は、キャピュレット家でジュリエットが求婚された相手のパリスと踊る場面の音楽である。


譜例1


譜例2


譜例3



2.ロメオとジュリエット(第1組曲の第6曲)

 バレエ全曲版では、第1幕の最後で踊られる「バルコニーの情景」からとられ、二人の愛が確信となっていく場面である。バルコニーの情景は、これまでも数多くの作曲家によって音楽にされている。プロコフィエフ以降では、バーンスタインが作曲したミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」において、トニーとマリアが歌う「トゥナイト」の場面を思い出す人も多いのではないだろうか。言うまでもなく、「ウェストサイド・ストーリー」は「ロメオとジュリエット」を現代にうつしたストーリーとなっている。

 弦楽器による「ロメオの主題」(譜例4)、フルートやヴァイオリンによる「ジュリエットの主題」(譜例5)によって、二人のこの日の出会いが表現されて、上昇音程による高揚が印象的な「愛のめざめの主題」(譜例6)、「愛の抱擁の主題」(譜例7)などの美しい旋律によって、愛の喜びが歌われる。


譜例4


譜例5


譜例6


譜例7



3.ティボルトの死(第1組曲の第7曲)

 バレエ全曲版では第2幕の終わりの数曲をまとめたものである。ロメオの親友であるマーキュシオ(譜例8)とキャピュレット家の傲慢なティボルトの闘いとマーキュシオの死、そして怒ったロメオとティボルトの闘いとティボルトの死、その後のキャピュレット家の人々によるモンタギュー家への復讐の誓い(譜例9)の場面で、極めて劇的な音楽となっている。復讐の音楽がゆっくりしたサラバンドの3拍子になっているのが独創的である。


譜例8


譜例9



4.別れの前のロメオとジュリエット(第2組曲の第5曲)

 冒頭のフルート・ソロ(譜例10)の目立つ部分は、バレエ第3幕「ジュリエットの寝室でのロメオとジュリエット」からとられている。ロメオがジュリエットに別れを告げる場面の音楽である。その後のホルンなどによる切なく盛りあがる場面は、ロメオと別れたジュリエットがローレンス僧の助力を乞いに僧院に向う時の音楽(バレエでは間奏曲)からとられている。家族などの猛反対を押しきってロメオへの愛を貫こうとするジュリエットの祈りの音楽である。最後のコントラバスとチューバによる「死の主題」(譜例11)が象徴的な後半は、ロメオとの愛のため仮死状態になるべく薬を飲む寝室のジュリエットを描写した音楽である。


譜例10


譜例11



5.ジュリエットの葬送とジュリエットの死(バレエ全曲版の第4幕)

 組曲版では第2組曲の第7曲「ジュリエットの墓の前のロメオ」及び第3組曲の第6曲「ジュリエットの死」の2曲で表現されており、第13回定期演奏会ではこの2曲で「ロメオとジュリエット」の演奏を終えたが、バレエ全曲版の方が音楽の流れが必然的でドラマ性もより顕著なため、今回の第42回定期演奏会ではバレエ全曲版で演奏することとした。

 ローレンス僧からもらった催眠薬により仮死状態となったジュリエットの葬式の列が続く。人々が去った後ロメオが現れ、ジュリエットの死に絶望して、毒を飲む。ロメオの絶望とロメオのジュリエットへの愛が「愛の主題」(譜例12)、「愛の抱擁の主題」(譜例7)などにより極めてドラマティックに表現される。その後ジュリエットは仮死状態から回復してロメオに気づくが、ロメオが既に死んだことを知って、ロメオの短剣で自らを刺し、ロメオの上に折り重なって倒れる。「ロメオへの愛(成就しない愛)の主題」(譜例13)が響く中、両家の人々が駆けつけて、お互いの罪の大きさを悟って祈りのうちに全曲が終る。


譜例12


譜例13



Ⅲ おわりに

 「ロメオとジュリエット」における愛の永遠性と平和への祈りは、時代を超越した永遠のテーマであり、「ロメオとジュリエット」を題材とした曲はベルリオーズ、チャイコフスキーなど数多くありますが、プロコフィエフの作品は、その情緒の深さ、表現の美しさと劇的な展開の鮮やかさなどにおいてベストのものと思われます。第42回定期演奏会では、前半で愛・死・平和への祈り、後半で別れ・死と再生・愛などの人間にとって永遠のテーマを、音楽で表現できることの幸せを心にこめて演奏したいと考えています。

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