三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。
シュトラウスの生涯
2013年08月04日 19:59はじめに
今回の指揮者の部屋では、ヨハン・シュトラウスについてご紹介いたします。ヨハン・シュトラウスの名前は有名ですが、日本語による伝記などは意外と非常に少ないです。シュトラウス・ファミリーについても、ヨハン・シュトラウス二世がワルツ王で、父親も同じヨハン・シュトラウスという名前、弟ヨゼフ・シュトラウスも「天体の音楽」などよく似たワルツを作曲している、という程度の一般的認識ではないでしょうか。「こうもり」とウィーン・フィルによるニューイヤー・コンサート(始まったのはオーストリアがナチス・ドイツに占領された1939年です)がなければ、ワルツ王のヨハン・シュトラウス(二世)ですら19世紀ウィーンの流行作曲家としての地位にとどまってしまうとまで書いたら、シュトラウス・ファンのお叱りをうけそうですね。
ヨハン・シュトラウスについて語る時、当時のオーストリアの政治状況とウィーンの風土についても触れざるを得ません。それらが音楽に大きな影響を及ぼしているからです。例えば「こうもり」の主役4人をみても、アイゼンシュタインはドイツ語で「鉄の石」の意味で、鉄血宰相ビスマルクを介した連想でプロシアを象徴しているように思われます。アイゼンシュタインに「こうもりの復讐」を果たすファルケはドイツ語でハヤブサの意味ですが、ハプスブルグ家によるオーストリア=ハンガリー帝国の紋章は双頭の鷲です。ファルケは戦争でプロシアに敗れたオーストリアの復讐を暗示しながら、こうもりの復讐(戦いではなく歌と笑いによる復讐)をしているのかもしれません。そしてロザリンデは、ロザリンデとしては素敵なウィーンのワルツを歌い、ハンガリーの伯爵夫人としては、チャールダシュを歌います。ハンガリーは「こうもり」が作曲される直前の1867年にオーストリアと対等な完全な自治を与えられた帝国内の地域です。これに対してアデーレは、女優の時はワルツを歌い、女中としてはポルカ(自治のほとんど認められていないチェコの舞踏曲)を歌います。
私たちがウィーン人のまねをする必要はありません。あの名演を聴かせてくれたカルロス・クライバーもウィーンの歌劇場で「こうもり」の指揮をするのは嫌がって、ミュンヘンで大みそかなどによく指揮をしていました。しかしウィーンとその音楽の魅力をその背景と共に知り、音楽を楽しむことは大切だと思います。以下の拙文は、2013年10月20日の公演プログラムに掲載予定の解説です。
ヨハン・シュトラウス(二世)の生涯と「こうもり」の誕生
ヨハン・シュトラウスは、1825年10月25日に同名の父親と母親アンナの長男として生まれた。父ヨハン・シュトラウスは、友人のヨゼフ・ランナーと共にウィーンのワルツを世界的な音楽にした音楽家であった。父ヨハンと母アンナの間には、1827年に弟のヨゼフ、さらに1835年にはエドゥアルトが生まれた。19世紀初めのウィーンはダンス・ブームで、父ヨハンもこのブームに魅せられて、ヴァイオリンの演奏による活動だけでなく、作曲活動も始めていった。父ヨハンは、仕事上は成功をおさめて自分の楽団を持つようになったが、家庭では暴君として振る舞い、息子ヨハンがヴァイオリンを弾くことなどを認めなかった。父ヨハンは愛人のところに通うことも多く不在であったため、母アンナが息子たちが音楽家になることの手助けをし、1844年ヨハン・シュトラウス二世は、父ヨハンの妨害を乗り越えてデビューし大成功となった。1848年にはフランスの2月革命に触発されてウィーンでも政治の変革の嵐がおこったが、この時に父ヨハンはラデッキー行進曲を作曲し、オーストリア帝国軍への支持を表明した。ウィーンにおける革命運動は失敗に終わり、革命の残党から非難を浴びながら1849年父ヨハンは病死した。その後、息子ヨハンは父親の楽団と舞踏会・演奏会への出演などもそのまま受け継ぎ、1862年最初の妻ヘンリエッテと結婚した。ヘンリエッテはシュトラウスよりも7歳年上の歌姫で数人の子持ちであったため、シュトラウスの結婚はウィーンの女性たちの失望を買うことになったが、ヘンリエッテのマネージャーとしての能力が高く、シュトラウスは経済的には裕福になった。1866年にオーストリアがプロシアとの戦いで敗れると、シュトラウスは敗戦した祖国を励ます意味もこめて「美しく青きドナウ」を作曲している。シュトラウスの音楽には、現実の苦しさや死への恐怖は忘れて、人生を楽しもうという傾向が強いが、これは当時のウィーンの多くの人々にもみられた人生観であった。これらの特徴は1868年に作曲した「雷鳴と電光」「ウィーンの森の物語」にもみられる。ウィーンの森では、貧しい農民が敗戦の被害を最も被り土地を開墾していたが、「ウィーンの森の物語」にみられる甘美なツィターの響きなどは、民衆よりも上流社会の音楽であるという傾向は免れないだろう。
1873年のウィーンでは特筆すべき2つの出来事があった。一つは国際博覧会の開催であり、もう一つは博覧会開催の直後に発生した金融恐慌である。大金持ちが一夜にして乞食となってしまうほどのバブルの崩壊であり、このような混乱の影響も残る1873年の12月にオペレッタ「こうもり」の作曲が始まった。
その経緯は以下のようである。テアター・アン・デア・ウィーンの総監督シュタイナーが、「真夜中の晩餐」というオペレッタの台本を買ったが、それを喜劇作家ハフナーとジェニーにウィーン向けに改作してもらい題を「こうもり」と改め、シュトラウスに見せたところ、この台本はシュトラウスの心を奪ってしまった。「こうもり」の作曲を始める前に、シュトラウスは既に2作のオペレッタを作曲していた。シュトラウスがこれまでのワルツからオペレッタへ、作曲の重心を移した背景にはいろいろな事情があった。まずは1860年代のウィーンでオッフェンバックのオペレッタが大流行したこと、それと妻のヘンリエッテやオッフェンバックの勧めもあった。しかしそれら以上に、1870年に最愛の母親アンナや弟のヨゼフ・シュトラウスを亡くしており、死への不安を感じやすかったシュトラウスが、流行作曲家として同じような雰囲気のワルツばかり作曲することに疑問を持ち始めたのかもしれない。
シュトラウスの他のオペレッタは台本のまずさもあり上演は続かなかったが、「こうもり」は1874年の初演以来140年間、オペレッタの最高傑作として世界中を魅了しつづけている。そこには、楽しい歌や魅力的なワルツなどにあふれているだけでなく、富などの価値が不確かな世界における真実の美しさ、優しさ、ユーモアなどがあふれているからだろう。実際に「こうもり」を作曲したことにより、ヨハン・シュトラウス二世は音楽史上不滅になったのではないだろうか。生と死の意味などを自らの作品で追究し続けたマーラーもウィーン宮廷歌劇場総監督になった後、これまで宮廷歌劇場ではオペレッタが上演されることはほとんどなかったのに、周囲の反対を押し切って「こうもり」をレパートリーに加えた。その英断に、シュトラウス自身深く感謝した。
1883年最初の妻に先立たれ、2番目の妻に逃げられたシュトラウスは、アデーレと3回目の結婚をした。この年には作曲意欲も回復し、「春の声」が作曲された。この後もオペレッタの作曲を続けていったが、1885年に作曲した「ジプシー男爵」以外では成功をおさめることはできなかった。1899年6月3日、シュトラウスは73年の生涯を終えた。
おわりに
最後に個人的な思い出で恐縮ですが、1983年から1984年にかけてミュンヘンでクライバーの指揮で「こうもり」を2回みました。本当に素敵な演奏でしたが、同じクライバー指揮でみたラ・ボエームや「バラの騎士」と比べて「こうもり」では演劇だけのところが第3幕冒頭を中心にかなりあるので、ドイツ人が笑っていても一緒に笑えたのはそのうち一部で、ドイツ語が完璧に聞き取れず悔しかった思い出があります。現在オペラでは日本でも原語による上演が主流ですが、オペレッタではせりふ・演技の割合が大きいだけに、今回の「こうもり」の日本語公演は、聴いていただく方々にも十分に楽しんでいただけるのではないでしょうか。生きる意味を教えてくれるマーラー、ベートーヴェン、ブルックナーなどの傑作とは別の音楽の楽しさ、美しさが「こうもり」には満ちあふれていると思います。
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