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メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」

2015年03月08日 14:16

譜例はこちらから

はじめに

 メンデルスゾーンは、モーツァルトやシューベルトと並んで、音楽史上まれにみる早熟の天才でした。しかし指揮者やピアニスト、また風景画家としてなどの多くの才能に恵まれ、完璧主義者でもあったため、作品の数は、同じく夭折したさきの二人ほどは多くありません。また交響曲についても、その番号は作曲順に並べられておらず、メンデルスゾーンの生涯を確認しながら曲を分析することが望ましいと思われます。そこでまずメンデルスゾーンの生涯を振り返り、それから「スコットランド」交響曲について論じたいと思います。なお生涯については、ハンス・クリストフ・ヴォルプス著、尾山真弓訳の『メンデルスゾーン』(音楽之友社)、およびレミ・ジャコブ著、作田清訳の『メンデルスゾーン 知られざる生涯と作品の秘密』(作品社)を主に参考にし、「スコットランド」交響曲の成立過程については、星野宏美著の『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』(音楽之友社)を参考にしました。また譜例については、音楽之友社の名曲解説全集から堀内敬三によるものを譜例8までは借用しました。

 

Ⅰ メンデルスゾーンの生涯

 フェリックス・メンデルスゾーンは、1809年2月3日にハンブルクで、アブラハム・メンデルスゾーンと妻のレーアとの間に生まれた。祖父のモーゼ・メンデルスゾーンは、ユダヤ人として苦労はしたが、カントとも親交があり、人道主義運動を擁護した有名な哲学者であった。父親のアブラハムは、彼の兄とともに銀行を経営していたが、一家はナポレオンのフランス軍による占領を避けて1811年にベルリンに移住し、主に生活上の理由からユダヤ教からキリスト教に改宗した。母親のレーアは、ピアノも弾けて教養があり、メンデルスゾーンは5歳の時からピアノを教わるようになった。そして彼は、7歳から専門的レッスンを受け始め、10歳で既に公開の私的演奏会で演奏している。その後もすぐれた指導者に恵まれて、12歳ではゲーテの寵愛を受け、ヴァイマルの社交界でもピアノ演奏をし、この頃からベルリンの家では、定期的に開催される日曜コンサートのために、12曲の弦楽シンフォニアをはじめ多くの作品を作曲するようになっていった。1825年には作曲家ケルビーニがメンデルスゾーンの将来性を確約したため、父のアブラハムもメンデルスゾーンが音楽家になることを認めた。同年、16歳の若さで弦楽八重奏曲のような傑作を、そして翌1826年には序曲「真夏の夜の夢」を作曲している。メンデルスゾーンは祖母から14歳の時にバッハのマタイ受難曲の筆写譜を贈られており、ベルリン大学生であった1829年にはマタイ受難曲を指揮し、バッハ以来の復活再演を見事に成功させた。このバッハ再興の熱狂はドイツ各地に伝わっていった。

その後、教養を高めるためにロンドンに旅行した際、スコットランドにも立ち寄って、「スコットランド」交響曲や「フィンガルの洞窟」の最初の構想を持ち始めた。8ヶ月ぶりにベルリンに戻ってから交響曲第5番「宗教改革」の作曲を始めている。半年後の1830年5月にはヴァイマルを経由してイタリアに行き、そこで1年近く滞在したが、その時に交響曲第4番「イタリア」の作曲を始めた。その後スイス、ミュンヘンなどを経由してパリに行ったが、2年以上に及ぶ教養旅行の終わりに再びロンドンに行き、「フィンガルの洞窟」の第二稿を指揮した。

1833年には、気がすすまないままに周囲の薦めでベルリン・ジングアカデミーの指導者に応募したが選ばれず、同年にメンデルスゾーンはデュッセルドルフ市音楽監督に任命され、2年間勤めた。メンデルスゾーンは音楽の好みがはっきりしており、例えば同時代の作曲家では、シューマンやショパン、ヴェーバーは近かったが、リストやベルリオーズは遠かった。また劇場の仕事は苦痛のほうがずっと多かった。1835年にはメンデルスゾーンはライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任した。ゲヴァントハウス演奏会でメンデルスゾーンは、音楽史上初めて指揮者の近代的役割を果たしたと伝えられている。ゲヴァントハウスでの演奏活動で特記されるべき一つとして、シューベルトの交響曲ハ長調「グレート」の初演がある。この曲は、シューマンがシューベルトの遺稿から発見したものだが、ウィーン楽友協会は「あまりに長く、あまりに難しい」と断ったため、シューマンはメンデルスゾーンに依頼していた。

1835年11月には父のアブラハム死去の突然の知らせに打撃を受けたが、その打撃は翌年フランクフルトでジャンルノー夫人(既に未亡人であった)の娘セシルと知り合い、1837年に結婚できた幸せによって癒された。2人の間には5人の子どもが生まれた。1839年にはピアノ三重奏曲第1番を作曲し、1840年には交響曲第2番「賛歌」をライプツィヒで初演した。1841年ベルリン音楽アカデミー音楽部門の主任という誘いを受けたメンデルスゾーンは、ライプツィヒの住居をそのままにしておきベルリンに向かったが、ベルリンでは進歩派と反動勢力の争いが強く、進歩派のメンデルスゾーンもその争いに巻き込まれていった。当時、「スコットランド」交響曲の作曲も進め1842年に完成させた。

1843年ライプツィヒに戻ったメンデルスゾーンは、ライプツィヒ音楽院の設立に尽力を尽くした。同年の11月終わりには、メンデルスゾーンは再び家族とベルリンに移住して、大聖堂の教会音楽の指揮とプロイセンの王立管弦楽団のシンフォニー・コンサートの指揮を任された。しかしやはりベルリンでの仕事は彼に合わず、1844年にはベルリンでの契約を終えることになり、当時ヴァイオリン協奏曲ホ短調を作曲した。メンデルスゾーンの仕事は、ライプツィヒ、ロンドンなど、さまざまな都市でなされたが、一番大きい課題は、オラトリオ「エリア」の作曲であった。1846年偏頭痛に悩まされていたメンデルスゾーンに対して、医者はこれ以上、ピアニストとして演奏会を開かないように勧め、メンデルスゾーンもこれに反対しなかった。1847年5月には愛する姉ファニーの突然の死を知り、回復不可能な打撃を受けてしまった。音楽的才能にあふれていたファニーは、音楽的な助言をメンデルスゾーンに与えていたばかりでなく、2人は特別深い関係であった。当時から、メンデルスゾーンの心の中に、自分自身の活動に価値があるのかどうかという疑念が生じ始めていた。神経が過敏になっているメンデルスゾーンがスイスの大自然の中で最後に仕上げたのが、弦楽四重奏曲ヘ短調(作品80)の作曲であった。そして1847年11月4日、脳溢血のため38歳の若さで亡くなった。

 

Ⅱ 交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」

 メンデルスゾーンの交響曲は、作品番号順、すなわち出版順に並べられている。交響曲第4番「イタリア」と交響曲第5番「宗教改革」は、メンデルスゾーンが亡くなった後、それぞれ1851年と1868年に出版されたが、曲が完成した年代順に並べると、第1番ハ短調(1824年)、第5番「宗教改革」(1830年)、第4番「イタリア」(1833年)、第2番「賛歌」(1839年)、第3番「スコットランド」(1841年)になる。つまり「スコットランド」交響曲は、メンデルスゾーンが完成させた最後の交響曲である。

この交響曲の作曲の歴史は長い。1829年の最初のスコットランド旅行の時に、既に曲の萌芽は生まれており、メンデルスゾーンは1829年7月の両親宛の手紙で次のように書いていた。 

「今日の夕方遅く、私達はメアリー女王が住み、また愛した宮殿に行きました。扉の近くにある螺旋階段をのぼると、小さな部屋があります。彼ら(殺害者達)は螺旋階段をのぼり、その小さな部屋にいるリッツィオを見つけて彼を引きずり出し、そこから部屋を三つ隔てた暗い角で、彼を殺害したのです。その隣にある礼拝堂は、今では屋根がなく、中には草や木蔦が生い茂っています。そこの壊れた祭壇の前で、メアリーはスコットランド女王の位についたのです。そこではすべてが壊れ、朽ちています。そして、明るい空の光が、中に差し込んでいます。私は今日、その場所で、交響曲《スコットランド》の出だしの旋律を思いついたのです。」

 それから12年以上経って、1841年に第一稿を、1842年の初演後に第二稿を完成させた。しかも1830年代にメンデルスゾーンは、この交響曲の作曲を何度も模索している。このように「スコットランド」交響曲は、メンデルスゾーン自身が不満を表明した「宗教改革」や「イタリア」とは異なり、12年間かけて作曲した自信作であった。旋律の美しさ、随所にみられる旋律のポリフォニックな扱い、構成的な強固さ、詩的幻想の豊かさとその気品の高さなどの魅力にあふれており、メンデルスゾーンの代表作であると同時に、数多くのロマン派交響曲の傑作の一つである。「スコットランド」という標題については、メンデルスゾーン自身がそのように呼んでいた時もあり、メンデルスゾーンの没後定着していったので、誤った標題ではないと考えられている。 

 

第1楽章 ソナタ形式

ゆったりした序奏部のリート主題(譜例1)は、1829年のスコットランド旅行の時に作曲したものである。その後ヴァイオリンによるレチタティーヴォ風のところが続く。アレグロのテンポの主部に入ると、譜例2の流麗な第1主題がすぐに現れるが、これは冒頭のリート主題と精妙に関連付けられている。激しい第2主題提示部分の終わりに譜例3の愛らしい主題が出現する。譜例4は、終結主題とも言うべき役割を持っている。展開部では、主題のポリフォニックな扱いが見事である。再現部では、譜例2,3の主題が、哀愁をおびたチェロによる新しい旋律を伴いながら再現する。コーダでは、スコットランドの嵐の情景が現れた後、静けさが戻り、冒頭のリート主題が再現されて静寂のうちに終わる。

第2楽章 ソナタ・ロンド形式

 テンポの速いスケルツォ的性格の楽章である。クラリネットのソロで最初に現れる譜例5の第1主題は5音音階でできており、牧歌的でスコットランド民謡風である。スコットランドのバグパイプを思い出させる。哀愁をおびた全曲の中で、最も明るく躍動的な楽章である。

第3楽章

 アダージョのテンポの緩徐楽章で9小節の序奏部の後で現れる第1主題(譜例6)は、提示部ではヴァイオリンによって、再現部ではチェロによって奏でられるが、歌にあふれ非常に美しい。これに対して、第2主題(譜例7)は葬送行進曲風であり、主に管楽器で演奏され、思いつめたような緊迫感があるが、これらの対照的な性格の両主題が交互に展開され曲想が盛り上がる。 

第4楽章

 アレグロ・ヴィヴァチィシモの部分では、付点のリズムが特徴的できびきびとして推進力のある第1主題(譜例8)と、オーボエによって最初に演奏される第2主題(譜例9)が展開されるが、この第2主題も、全曲冒頭のリート主題との関連が強い。この第4楽章の最後に、八分の六拍子のアレグロ・マエストーソ・アッサイのコーダが置かれている。男声合唱のようなイ長調コーダの主題(譜例10)は、牧歌的でありながら同時に力強い。やはり全曲冒頭のリート主題と巧みに関連づけられている。この主題が音域を上げながら4回繰り返されて全曲が輝かしく終わるが、この第4楽章最後のコーダは、第1楽章冒頭の序奏とともに、この曲の際立った構成上の特徴となっている。

 

おわりに

 メンデルスゾーンの「スコットランド」交響曲は不滅の名曲であり、私たち伊勢管弦楽団は、無謀にもこの難曲を第一回定期演奏会のメイン曲として演奏しました。当時は三十数名による拙劣な演奏で、演奏を聴いてくださった方には、随分ご心配をおかけしたと思います。現在、伊勢管弦楽団が創設されて34年経ち、皆様のおかげで昔とは比較にならない水準で演奏できる希望とその幸せに心より感謝しています。

 

伊勢管弦楽団 音楽監督   大谷 正人

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