三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。


ヤナーチェクのシンフォニエッタ

2014年03月01日 12:16

はじめに

 伊勢管弦楽団ではチェコ出身の作曲家の音楽を数多く取り上げてきています。これまでに32回の定期演奏会で演奏してきた作曲家を出身国で分類すると、西洋近代の管弦楽作品の基盤を作ったドイツ・オーストリア系の作曲家は別格として、他の作曲家を地域別にみると、これまでロシア系(チャイコフスキー、ラフマニノフなど)が7回、フランス系(ラヴェル、フォーレなど)が6回に対して、チェコ出身の作曲家は、マーラーを含めると昨年までになんと14回(ユダヤ人であるマーラーを除いても6回)と、非常に多くの作品を演奏してきました。しかし、これまで演奏してきたチェコ出身の作曲家と比べると、今回のヤナーチェクは同じチェコ出身の作曲家といいながらも非常に曲の雰囲気が異なっています。それは、時代的背景もありますが、同じチェコといっても、スメタナ、ドヴォルジャーク、マーラーは西部のボヘミア出身であるのに対して、ヤナーチェクは東部のモラヴィア出身であることも大きな要素でしょう。このようなヤナーチェクの生涯と、今回演奏するシンフォニエッタについて、以下に述べたいと思います。

 

Ⅰ ヤナーチェクの生涯と作品

 レオシュ・ヤナーチェクは1854年7月3日、チェコの東部、モラヴィア地方北部のフクヴァルディで生まれた。同じチェコで生まれた作曲家としては、スメタナの30歳年下、ドヴォルジャークの13歳年下、マーラーの6歳年上となる。11歳の時、モラヴィア地方の中心都市ブルノの修道院付属学校の少年聖歌隊員となり、その聖歌隊の指揮者であったクシーシュコフスキーから音楽を学んだ。12歳の時に教師であった父親が亡くなったが、叔父の支援もあり15歳からはチェコ教員養成学校に進学し、1874年から1年間、プラハ・オルガン学校で学んだ。19歳の頃から合唱団の指揮を始め、1878年ドヴォルジャークとの交流から作曲家になろうという思いが強くなった。

1881年にはブルノにオルガン学校を開校し、校長に任命された。同年7月にはヤナーチェクがピアノを教えていたズデンカ・シュルゾヴァーと結婚した。結婚した時ヤナーチェクは27歳であったのに対してズデンカは16歳になる手前で、翌年に娘オルガが誕生したが二人の関係は破局を迎えた。1884年まで別居、その後再び同居するが第二子のヴラディミールが1890年に2歳半で亡くなると二人の関係は冷え切ってしまった。1879年にライプツィヒ音楽院に1880年にはウィーン音楽院に留学したが、留学はヤナーチェクを満足させるものではなく、ヤナーチェクの関心は次第にモラヴィアの民俗音楽の収集へ向かっていった。民謡への思いについては、ヤナーチェクは亡くなる2年前の1926年に次のように述べている。

「民謡─私はその中で幼少の頃から生きてきた。民謡の中にこそ、完全な人間が、身体が、精神が、そして環境すべてのものが存在するのだ。民謡から生育する人間は完全な人間へと成長する。民謡は一つの精神である。というのも、民謡は人為的に植え付けられた文化ではなく、神の文化による純粋な人間の精神を有するからだ。だから私は、我々の芸術音楽が、これと同じ民族の源泉を出自とするものであるのなら、我々もまた芸術音楽の創造を通じて、互いに抱擁し合うことになるものと信じる。民謡は国民(民族)を、諸々の国々を、そして全人類を、一つの精神、一つの幸福、一つの祝福へと結びつける。」

30歳代のヤナーチェクは、モラヴィア民俗音楽の編曲や作曲に最も精力を注いだ。同じチェコでも西部のボヘミアは、風土としても地理的にもドイツ・オーストリアに近く、その音楽も拍節構造のはっきりした規則的なものが多く、ポルカのような舞曲も多かったが、モラヴィアの音楽は東方の影響が強く、規則性に乏しく、旋律もリズムもより自由なものであった。ヤナーチェクは、モラヴィアの伝統文化こそが西スラヴ民族であるチェコ人の音楽を象徴するものであると考え、よりドイツ音楽に近いスメタナの音楽には否定的であった。

ヤナーチェクは作曲家としては、大器晩成型であり、ヤナーチェクの最初の傑作は、民族主義のオペラ「イェヌーファ」であった。このオペラの作曲に1894年から9年間をかけており、この頃よりヤナーチェクは、話し言葉の抑揚を楽譜に書き留めた「発話旋律」の理論を体系化していった。「イェヌーファ」は子どもの死にまつわる悲劇を描いた作品であるが、完成の直前ヤナーチェクの娘のオルガが病死した。「イェヌーファ」は1904年にブルノで初演、1916年にはプラハで上演されて、大成功を収めた。発話旋律について、ヤナーチェクは1928年に次のように語っている。「発話旋律とは何か? 私にとって楽器から聞こえてくる音楽は、ベートーヴェンの作品であろうと他の作曲家の作品であろうと、真実を包括していないと思う。私の場合、常に奇妙なことに、誰かが私に話しかけてくるや、私はその人が実際に話す内容よりも、その人が発する音声の抑揚の方に耳を傾ける…。生とは音(響き)そのものであり、人間の発話の抑揚である。あらゆる生き物は最も深い真実に満ちている。それらは私の生の要求の一つなのだ。1879年以来、私は発話旋律を書き留めて来た…それは私が魂をのぞきこむ窓である。」

1917年夏、ヤナーチェクはブルノ東方の湯治場ルハチョヴィツェで38歳年下の人妻カミラ・シュテスローヴァと出会い、ヤナーチェクが74歳で亡くなる1928年まで交際を続けた。二人の関係は一方的でプラトニックな関係であったが、カミラはヤナーチェクの好意を寛大に受け流していたようである。カミラとの出会いは、ヤナーチェクに創造のエネルギーをもたらした。ヤナーチェクの代表的作品、「消えた男の日記」(1917~1919)、オペラ「利口な女狐の物語」(1921~1923)、弦楽四重奏曲第1番(1923)、「シンフォニエッタ」(1926)、「グラゴル・ミサ」(1926)、オペラ「死の家より」(1927~1928)、弦楽四重奏曲第2番「内緒の手紙」(1928)などの傑作はヤナーチェクの晩年10年間に次々に作曲された。

1928年の夏には、恋人カミラとその夫、11歳になるカミラの息子をフクヴァルディに招待して休暇を過ごしていたが、カミラの息子が森で迷子になったと思い込み、彼女の息子を捜す内に風邪をこじらせて肺炎にかかり、8月12日に満74歳で逝去した。

 

Ⅱ シンフォニエッタ

 シンフォニエッタの成立の由来としては、1926年の春、ヤナーチェクがブルノの新聞から1861年創設のチェコ体操協会ソーコルの全国大会の開会式に使う音楽の作曲を依頼されたことが直接の契機であった。しかしその前年、ヤナーチェクが恋人のカミラとピーセクという町の公園で催された野外コンサートに出席し、ファンファーレを聴いた時の感銘や幸福感からこの曲の構想は生まれていた。曲は1ヶ月という短期間で作曲され、最初ヤナーチェクは1918年の独立後結成されたばかりのチェコスロヴァキア国防軍のために「軍隊シンフォニエッタ」とも名づけていたが、出版の時には「シンフォニエッタ」とした。

 各楽章に付された1.ファンファーレ、2.城、3.王妃の僧院、4.街頭、5.市庁舎という標題についてヤナーチェクは、1927年2月に書いたエッセイに、この曲の音楽外的な意味について次のように綴っている(内藤久子の訳による;一部略)。

「それから私は町が奇跡的に変化を遂げるのを見た。(中略)1918年10月28日、町は蘇った。私はその中に自分自身の姿を見た…。そして勝利のトランペットの咆哮、王妃の僧院の神聖な平和、夜の影、緑の丘の安息、わが町ブルノの大いなる偉大な光景を眼前にして、私のシンフォニエッタがここに完成したのだ。」

 シンフォニエッタはもともと小交響曲というような意味であるが、交響曲に一般的に使用されるソナタ形式の曲は、どの楽章にもない。しかし冒頭のテナーチューバによるファンファーレの主題が全曲を統一する堅固な構成となっている。編成も特異で通常のオーケストラの編成以外に、トランペット9人、バス・トランペット2人、テナーチューバ2人が必要である。このファンファーレ隊により第1楽章は演奏され、第5楽章の後半は通常のオーケストラとファンファーレ隊が合体する構造となっている。5つの楽章も、従来の形式からは離れているが、緩-急-緩-急-緩というテンポ設定で、中央に位置している第3楽章を最もゆっくりなテンポとするとともに、第3楽章の中央に最もテンポの早い激しい部分を置くなど、緻密に構想されたシンメトリックな構成となっている。

各楽章が独自のリズムをもつが、リズムやリズムによって規定された音価についてヤナーチェクは、「音の長さ、すなわち音価にしたがって同一気分の持続が表現されるのであり、逆に音や音価が変化する場合、それは同時に気分の変化を象徴するものとなる。同じような気分が繰り返される際には、そこに一様な音の層、つまり均等な音価が生じることになる」と述べている。

曲は以下の5つの楽章からなる。なお以下の譜例は文献2)からの引用である。

第1楽章「ファンファーレ」

 冒頭のEs-Des-B(変ホ-変ニ-変ロ)のテーマ(譜例1)を原形として、変奏(ヴァリアント)の形で譜例2の主題が音程やリズムを微妙に変更し、繰り返しながら、曲は発展していく。この書法は、地元のモラヴィア地方に息づく民謡などに根ざした構造となっている。曲の後半ではオスティナートと呼ばれる、一定の音型を同一声部・同一音高で反復する技法による独自の音響の構築が目指されている。オーケストラとは別働隊である13人の金管奏者とティンパニだけによって演奏される。

第2楽章「城(ブルノのシュピルベルク城)」

 冒頭のクラリネットによる32分音符のオスティナート1拍分を構成するAs-D-E(変イ-ニ-ホ)の音型(譜例3)は、第1楽章冒頭の主要動機とも関連が深いが、この楽章の中心的動機で、譜例5のように拡大されて様々に展開される。これと第1楽章冒頭の動機から派生したオーボエによって吹かれる躍動的な主題(譜例4)、この2つの動機から第2楽章は構成されている。第2楽章後半でトランペットが祝典的に奏でるファンファーレ(E-H-A-H)は、第2楽章の冒頭音型の反行形となっている。

第3楽章「王妃の僧院(ブルノの王妃の修道院」」

 ゆったりしたテンポで哀愁を帯びた主題(譜例6)で始まり、ヴィオラとハープは時々オスティナートとして分散和音で伴奏をする。途中でシンコペーションの和音による音楽(譜例7)が次第に激しくテンポは速くなり高揚するが、最後は冒頭の主題の変奏に戻り、静かに終わる。

第4楽章「街頭(古城に至る道)」

 3小節+3小節+2小節+2小節という単位で構成されているトランペットによるリズミカルな主題(譜例8)が反復される間に、リズム、音色、拍節構造などが様々に変容して姿を変えていく。同じ主題が反復されるが、新鮮な表情が途切れることがない。

第5楽章「市庁舎(ブルノ市庁舎)」

 冒頭のフルートによる主題(譜例9)は、第1楽章冒頭主題の逆行形で始まる。この主題が変奏されて盛り上がり、第1楽章のファンファーレの音楽に突入する。第5楽章のファンファーレでは、金管の別働隊とオーケストラ本体が一緒になり、人々の勇気を讃える輝かしい歓喜の曲となって終わる。

 

参考文献

1)    小林聡幸:ヤナーチェクとその音楽における直接性と日常性.日本病跡学雑誌、52-62、2002

2)    佐川吉男:「シンフォニエッタ」、門馬直美監修、『名曲解説全集2 交響曲Ⅱ』pp181-186、音楽之友社、1979

3)    内藤久子:『チェコ音楽の魅力:スメタナ・ドヴォルジャーク・ヤナーチェク』東洋書店、2007

 

伊勢管弦楽団   音楽監督  大谷 正人

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