三重県伊勢市を本拠地として活動するアマチュアオーケストラです。


チャイコフスキーの交響曲第5番

2015年02月15日 17:21

 伊勢管弦楽団の定期演奏会でチャイコフスキーを取り上げるのは、約20年ぶりです。チャイコフスキーは、言うまでもなく日本でも人気の高い偉大な作曲家で、彼の交響曲、特に第4,5,6番は作曲されてから120年あまりの間、オーケストラの演奏会で非常によく演奏されています。その中でも第5番はまとまりがよいために、最も好んで演奏される名曲です。今回この曲を演奏できることになったのは、ひとえに私たち皆が敬愛している植村茂先生のおかげなのですが、伊勢管弦楽団の演奏会にいつもお越しいただいている皆様にも伊勢管のチャイコフスキーの熱い演奏を聴いていただけるのはとてもありがたいことです。

 チャイコフスキーは、手紙を非常にまめに書いた作曲家で5,000通以上の手紙が残されています。プロポーズされたまま本当は愛していない女性と結婚し、1カ月もたたずに結婚生活が破綻したこと、家庭を望んでいたのにもかかわらず自由と孤独を優先したこと、しばしば抑うつ状態になったこと、同性愛がありその相手も変遷していったこと、富豪の未亡人であるメック夫人からの莫大な支援を受け続けたその奇妙な友情関係、指揮が苦手なのに西欧におけるロシア音楽の樹立と生活のために指揮の機会を増やしていったこと、度重なる西欧への旅行による作品への影響など、チャイコフスキーの生涯を知ることは、作品への理解を深くします。そこで今回は、チャコフスキーの生涯と交響曲第5番について、解説したいと思います。チャイコフスキーの生涯については、伊藤恵子著の『チャイコフスキー』(音楽之友社)から主に引用しました。この本を主な参考図書としたのは、2005年に出版されたため、チャイコフスキーの伝記の中で最も新しい情報が多く、チャイコフスキーの手紙が多く載っているためです。また譜例の借用は、井上和男による『作曲家別名曲ライブラリー チャイコフスキー』(音楽之友社)の交響曲の章から借用しました。

 

Ⅰ チャイコフスキーの生涯

チャイコフスキーは1840年の旧ロシア暦で4月25日、西暦で5月7日にロシア中部の鉱山都市ヴォトキンスクで生まれた。父親イリヤは当時45歳の製鉄所所長で1827年に結婚した妻とは死別しており、1833年にアレクサンドラと再婚し、6人の子どもを育てた。家族仲はよくチャイコフスキーは母親の秘蔵っ子であったが、母親は1854年6月にコレラのため享年42歳で亡くなった。その後チャイコフスキーは、10歳年下の双子の弟モデスト、アナトリーの母親役を心がけた。チャイコフスキーにとって愛する母親の死の衝撃は大きく、一生に大きな影響を及ぼし、彼はどの女性にも母親のイメージを求めた。「女だけができる愛撫と心遣いがほしい…女の手で愛撫されたいという狂った望み」とアナトリーに42歳の時に書いている。孤独を好むのに、人懐っこく、過度の愛情欲求をもつというチャイコフスキーの矛盾した対人関係、特に異性関係に母親の死の影響は大きかった。

当時のロシアでは音楽家の地位は西欧よりもはるかに低く、両親にとって子どもを音楽家にするという発想は全くなかった。チャイコフスキーは10歳の時にペテルブルグに上京し、19歳まで法律学校で学び、聖歌隊にも属しピアノを学ぶようになった。法務省文官に就職するが仕事は退屈で、1861年の最初の西欧旅行後に、チャイコフスキーは帝室ロシア音楽協会(翌年にペテルブルグ音楽院に改編)に入学することを決意した。1863年には勤務先の役所に退職願いを出した。1865年12月には第一期卒業生としてペテルブルグ音楽院を卒業し、1866年1月から帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で音楽理論を教えるようになった。帝室ロシア音楽協会に対しては、バラギレフ、ムソルグスキーら、いわゆるロシア5人組から、音楽上の目指す方向について反発が多かった。当時の最初の大曲が交響曲第1番である。1868年イタリア・オペラ団のプリマドンナ、デジーレ・アルトーがボリショイ劇場で公演をしている時に、二人は急激に相思相愛になり短期間に婚約まで至ったが、周囲に反対されてアルトーは次の巡業地ワルシャワに出発し、チャイコフスキーは捨てられた。ただアルトーはチャイコフスキーが生涯にただ一度結婚を望んだ女性であった。その前から、チャイコフスキーには同性愛の対象がいて、その関係が破綻した時など、しばしば抑うつ状態に襲われた。1973年秋には同性愛の対象であった14歳年下のザークがピストル自殺をし、しばらく作曲できなかったが、翌年にはピアノ協奏曲第1番の作曲などで見事に復活した。

1876年、チャイコフスキーの音楽の大ファンであり、大富豪の未亡人であったフォン・メック夫人との文通が始まり、メックは万年金欠病であったチャイコフスキーに無償の経済的支援を申し出た。その援助はメック一家の家計が傾く1890年まで続けられることになった。二人の文通は1,000通以上に及び、9歳年上のメックは、チャイコフスキーを領地内の別荘に招いたりフィレンツェに招いたりしたが、チャイコフスキーの提案で二人は会うことはなかった(フィレンツェでの一瞬の偶然の遭遇を除いて)。メックは、チャイコフスキーの死の3ヵ月後の1885年1月に、後を追うかのごとく亡くなっている。1877年には、チャイコフスキーの運命は劇的な出来事に出会う。4月にアントニーナ・ミリュコーヴァから熱烈なラヴレターをもらった。アントニーナは当時27歳で、チャイコフスキーの音楽に惹かれたわけではなかったが、彼の人間性や外見に以前から惹かれており、アントニーナの情熱にほだされて1877年7月6日、二人は結婚式をひっそりとあげた。しかし妻の実家訪問でいさかいの絶えない家族に幻滅し、小さいアパートでの結婚生活ではチャイコフスキーの望む自由がなかった。チャイコフスキーはひたすら自分に尽くしてくれる母のような女性を求めたが、家族愛に無縁だったアントニーナはそのような女性ではなかった。結婚式の20日後、実家のあるカメンカに逃避行をし、モスクワに戻ってからモスクワ川に浸かって自殺未遂をしている。一緒に生活したのはわずか33日で、結婚生活は80日で終わった。後始末となる離婚交渉は、友人でチャイコフスキーの作品の出版をてがけているユルゲンソンに一任し、チャイコフスキーは半年間、ベルリン、パリ、そしてスイスに旅立ってしまった。この一連の悲劇は、チャイコフスキー側の責任が大きいが、失意のどん底にあってメックからの経済的援助のもと、チャイコフスキーは歌劇「エフゲニー・オネーギン」と交響曲第4番という2つの傑作の作曲に全力を尽くした。

チャイコフスキーは何度も長期間西欧を旅行したり、名声が高まってからは演奏旅行をしたりしたが、一番好んだのはイタリアであった。イタリア奇想曲や弦楽6重奏曲「フィレンツェの思い出」のような、イタリアに直接的な関係がある曲だけではなく、ヴァイオリン協奏曲、「スペードの女王」のようにイタリアで作曲された名曲も少なくない。1877年における結婚生活の破綻と突然の外国旅行などに関する世間のうわさなども苦痛で、チャイコフスキーは1878年に音楽院を退職した。1880年代は音楽院の仕事から解放されて、名声も高まり、指揮への苦手意識も減って演奏の機会も増え、メック夫人からの援助もあったため、冬季を中心に1年の半分は西欧で生活していた(チャイコフスキーは7カ国語に通じていた)。1885年にはモスクワの北西約90kmの小都市クリンに初めて我が家を持った。クリンで1888年に作曲された交響曲第5番には、このようなチャイコフスキーの生活環境の影響も大きい。

当時から友人の死亡も続き、また1890年にメックから、家庭的・経済的な事情から援助の打ち切りを告げられてショックを受け、1891年9月に遺言状を作成した。その内容として、妻への援助は月100ルーブル以下と決め、弟モデスト、甥ヴラジーミル、姪タチヤーナの子ゲオルギー、従僕アレクセイを主要相続人と定めた。ヴラジーミルへの愛は晩年に目立っていた。1893年10月16日に交響曲第6番の初演を指揮し、その9日後の10月25日に死去した。死因については、コレラによる死亡とされているが、異論もあり議論が多いところである。

 

Ⅱ 交響曲第5番 ホ短調 作品64

チャイコフスキーにとって11年ぶりの交響曲となる交響曲第5番の作曲には、苦労が多かった。1888年夏に約2ヵ月半で完成させたと思われるが、弟のモデストには「アイディアもインスピレーションも尽きたのでは」と書き、メックには「昔の手法をまねることしかできないのでは」と落ち込んでいる。そのような「疲れ果てた頭脳から無理やり引き出した」交響曲であったためか、チャイコフスキーのこの曲への評価は低かった。「あの中には何かイヤなものがあります。大げさに飾った色彩があります。人々が本能的に感じるような、こしらえもの的な不誠実さがあります」と自作を当初こきおろしていた。

一つの旋律で想念を統一する手法に関して、チャイコフスキーはパリに何度も旅行しており、ベルリオーズの幻想交響曲に接していたので、その関連性も考えられるだろう。チャイコフスキー自身の過小評価にもかかわらず、全楽章を冒頭の動機で統一し、運命への絶対服従から勝利へと続く流れがあり、初演以降ずっと世界中で好んで演奏され続けている。チャイコフスキーは1878年の手紙で「私の交響曲は、もちろん、標題音楽的ですが、その標題は言葉では決して表せないようなものです」と書いている。この交響曲第5番において、確かに第4楽章に恣意的に作られた歓喜という不自然さを感じることがあるかもしれない。チャイコフスキーの指揮による1888年の初演時、聴衆にも演奏家にも不評であったこの曲が、1892年の大指揮者ニキシュによる演奏では、練習の途中で演奏者の表情が不機嫌から一変し演奏も大成功で、「5番を火に投げ込むつもりであった」チャイコフスキーから大変感謝されたという。このように演奏の果たす役割も大きいのではないだろうか。

第1楽章

アンダンテ─アレグロ・コン・アニマ、ソナタ形式

序奏部で冒頭のクラリネットによって演奏される重く暗い表情の主要主題(運命の主題)(譜例1)は、全楽章のどこかで重要な役割を果たすことになる。アレグロの提示に入ると、やはりクラリネットとファゴットでポーランド民謡風の第1主題(譜例2)が提示されて、この主題が中心的に展開され盛り上がる。その後、第2主題(譜例3)がむしろ次の第3主題への移行部のような印象を与えながら弦楽器、次に木管楽器で奏される。その後に出てくる憧憬にあふれた第3主題(譜例4)は、チャイコフスキーの名旋律の中でもベストを競う名旋律の一つである。シンコペーションのリズムで美しい弧(アーチ)を描き、木管による対旋律で生き生きと伴奏される。展開部では第1主題と第2主題などが中心的に展開される。再現部は提示部とほぼ同様に演奏されて、第1主題が繰り返されて静かに暗く終了する。

第2楽章

アンダンテ・カンタービレ、コン・アルクーナ・リチェンツァ(多少の自由さをもつアンダンテ・カンタービレ)、複合3部形式

主部では、ロシア正教の賛美歌風の前奏に続いて、ホルンが甘美でどこか哀愁を帯びた第1主題(譜例5)を奏でる。その後すぐに、オーボエの甘美な第2主題(譜例6)が続くが、この第2主題が2度目にヴァイオリン・ヴィオラで気品をもって(con noblezza)演奏される時、魅力的なチャイコフスキー節は人の心を引き付けて離さない。チャイコフスキーには下降音型による旋律が多いのに対して、この主題では上昇音型の中に切ない想いがこめられている。中間部では譜例7の旋律が繰り返されて盛り上がり、突然「運命の主題」が圧倒的な力をもって現れる。その後主部に戻るが、第2主題が反復されて熱情的に盛り上がるところでは、チャイコフスキーの指示した音量はffffにまで達する。そのすぐ後で、「運命の主題」が再度、さらに威圧的に現れて、最後は第2主題がひそやかに、なごりを惜しむように静かに繰り返されてこの美しい楽章を終える。

第3楽章

ワルツ、アレグロ・モデラート

優雅なワルツ(譜例8)が主部の中心主題で、中間部はリズミカルで細かい動きの主題(譜例9)による。チャイコフスキーはバレエ音楽における数々のワルツをはじめ、ワルツの作曲が得意であったが交響曲にワルツを挿入したのは異例で、いずれも重くなりがちな3つの楽章とのバランスを絶妙に計算したのかもしれない。「運命の主題」は最後に第4楽章での登場を暗示するように、ここではひそやかに演奏される。チャイコフスキーは、どの作曲家よりもモーツァルトを愛しており、彼の交響曲の中では、最もモーツァルト風の優雅さをもった曲となっている。

第4楽章

フィナーレ、アンダンテ・マエストーソ─アレグロ・ヴィヴァーチェ、ロンド・ソナタ形式

冒頭から「運命の主題」がこれまでの短調ではなく、いきなりホ長調で堂々と威厳をもって演奏される。主部に入ると絢爛で華麗な第1主題(譜例10)がいきなり力強く現れ、譜例11、12の動機を経て、第2主題(譜例13)が展開される。その後「運命の主題」が再度展開されて、第1、第2主題が再現された後は、「運命の主題」が再びホ長調で勝利の行進のように輝かしく演奏され、最後は第1楽章の第1主題(譜例2)もトランペット、ホルンなどによるffffの強奏で現れ、全曲を華やかに終わる。 

 

おわりに

交響曲第5番は、前述のようにアマチュア・オーケストラの演奏会でも、プロ・オーケストラの演奏会でも、演奏されることの多い名曲です。しかし、チャイコフスキー自身の言葉にもあるように、特に第4楽章などは、演奏次第では中身が乏しく単に演出効果をねらった曲に堕してしまう危険性もはらんでいるように思います。チャイコフスキーが表現したかったのは、交響曲第4番にあるような運命の克服そのものではなく、その願いや想念のようにも思われます。指揮者は当然ですが、演奏する私たち自身の音楽性、感性が問われやすい曲かもしれません。

 
伊勢管弦楽団  音楽監督  大谷 正人

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